あーや

ウンベルトDのあーやのネタバレレビュー・内容・結末

ウンベルトD(1952年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

1951年のイタリア映画なのですが、年金問題や高齢者の貧困など2017年の日本と重なる点が多い。イタリア映画の巨匠ヴィットリオ・デ・シーカの名作「ウンベルトD」です。

主人公のウンベルト・D・フェラーリは愛犬のフライクを連れて年金値上げデモの群衆の中にいた。長年務めてきた公務員を退職した彼は小額の年金を頼りに暮らしているのだが、家賃を滞納していて女家主からは滞納分を一括で支払わないと追い出すと脅されていた。持っている金時計をデモ仲間や友人に売ろうとしても疎ましがられ、やっと売れても滞納家賃のちょっとした足しにしかならない。全財産を叩いて彼から金時計を売った男はすぐ横で物乞いをし始める。
家を追い出されそうになっている彼を思いやるのはその家で使用人として働くマリア。ただ彼女も妊娠しているにも関わらず恋人に捨てられた身なのであった。
貧しさに困ったウンベルトは自ら病院で短期入院をし始めたのだが、フライクを連れてはいけないためマリアに世話を頼んだ。しかし女家主はウンベルトがいない間に彼の部屋の勝手に改築し始めた上にフライクを外へ逃がし、本格的にウンベルトを追い出そうとする。退院したウンベルトは慌てて必死にフライクを探す。何とか保健所に連れ込まれたフライクを発見し、思い切り抱きしめる。
ところがやっとフライクと再会できたところで苦しい生活は何も変わらない。女家主は改築を進めるし、かつての友人達に金銭事情を説明しても冷たく接せられる。 生きていくことに次第に希望を見いだせなくなってゆくウンベルト。それでもウンベルトのあとをちょこちょこと寄り添って歩くフライク。物乞いを試みてもプライドが邪魔をしてうまくできないため、とうとうフライクが帽子を咥えて芸をするもやはりうまくいかない。
ある朝遂にウンベルトは自殺を心に決め、フライクの引き取り手を探し歩くが誰も引き取ってくれない。
フライクを広場で遊ぶ子供たちに放して1人線路に向かうも、いつも通りウンベルトのあとを付いてきてしまうフライク。仕方が無いと思った彼はフライクを胸元まで抱き上げ線路に佇んだ。電線が揺らぎ、煙を上げながら真っ黒な電車が近づいてくる。突然の恐怖からうなり出したフライクはウンベルトの腕から逃げ出してしまう。もくもくと煙を吐き出す電車はウンベルトの顔すれすれを走り去ってゆく。今度は間一髪のところでウンベルトがフライクに命を救われたのだ。自分のあとを付いて来るウンベルトを線路から遠ざけようとしながらも、先ほどの恐怖からウンベルトのことを信頼できなくなってしまったフライク。俯きながらもウンベルトが松ぼっくりでフライクの気をひこうとしている様子を見て、やっと気持ちが戻ったのか以前のように遊び出した。そして2人は跳ねたり走ったりしながら線路から遠ざかってゆき「FINE」

戦後イタリアの経済状況は悪化し、主人公は貧困のため絶望的な状況なのにも関わらず「苦痛」よりも「切なさ」を感じたのはデ・シーカ監督の味ですね。溝口健二の名作「西鶴一代女」もひとりの女性が不幸の連続で身を落としてゆくストーリーでしたが、たった1人で落ちぶれてゆく様は暗くて見続けるのが本当に本当に苦しかった。でも本作にはそのような痛みはなく終始切なさを感じながら鑑賞していたのです。いつもウンベルトに寄り添うフライクとマリアの存在が大きいのかも知れません。
特に自殺を決意した朝、改築のためにぶち抜かれた壁の穴からウンベルトとフライクを見つめるカメラの目線が印象的でした。穴の向こうからウンベルトを優しく見守るようにそっと彼に近づいてゆくカメラ。冒頭で本作をデシーカ監督の父親「ウンベルト・デ・シーカに捧げる」という序文があったのも関係があるのでしょうか。悔しかったり切なくはなっても悲痛さは全くありませんでした。
作品の中で救いの役割を果たしているのはフライクですね。道端で帽子を咥えてタッチして芸をするところなんて健気ですし、施設に預けられた犬達をあからさまに怖がったり松ぼっくりを持つウンベルトをちらちら不安げに見ている表情なんてね・・名演!大号泣せずにはいられないのですよ・・ほんとにもう・・・・(T_T)
私は猫が好きで犬は苦手なのですがフライクは大人しくて賢くてほんまにいい子なのです。変に人間に媚びてもいないのでパートナーにぴったりですね。
帽子をかぶった男と一匹のペットのお話となると数年前にDVDで購入した「ハリーとトント」も併せて観たくなりました。
あーや

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