Anima48

エクソシストのAnima48のレビュー・感想・評価

エクソシスト(1973年製作の映画)
4.5
この世を生きる寄る辺のなさ、不安や恐怖だけでなく、苦労や善行を重ねてもその先に幸せは訪れないしその兆しもない。神の不在の時代なのだろうか、もっと踏み込むと神は果たして存在するのか、いや、この残酷な世界で秩序や善きものには意味があるのかという事を考えてしまう。

転居したばかりの少女リーガンには友達はいないようで母親がただ一人の交流相手、悪いことに別居中の父親が自分を軽んじている様子を電話の又聞きで知ってしまう。反対に母親は社交家でリーガンが2階で寝ている間に一階で有力者を招いてパーティをしている。常識的には今回の事案は寂しさから精神を病んだ子供が母親の注意を惹きたいだけの狂言にも見える。リーガンだけでなく信仰を失ったカラス神父も父親を喪っているという共通点があり、それは血縁上の父というだけではなく、父なる神を喪った現代人を代表してるようだった。

実は悪魔祓いにそれほど時間が割かれていない、医療的なアプローチ、例えば相談、医学的な精密検査が続く。母親が最初に相談する場所は病院、それがかなり長く時間をとって描写されている。科学の象徴ともいえる先端医療ですらも役に立たないし、現在からすると多少意外な治療法の提案もある。少女が苦痛に悶絶している姿を多数の白衣の大人が見守っている様子(見てて一番つらかった)は、医療技術の進んだ未来の医師が見たら、中世の魔女裁判と同一視されてしまう可能性もあるんじゃないかと思う。科学も信仰も真理に探る為の方法でしかなくて、長い時間を経てもそんなに人は進歩せずいつまで経っても真理たどり着くには稚拙な手段しか持てないような心持ちになった。(21世紀の現在では、リーガンのような症状を持つ患者さんは抗NMDA受容体脳炎という精神疾患とは異なる病気だと診断され、治療は可能で症状は改善することを最近知った。)とはいえ医療や心理カウンセリングを通じて悪魔祓いという手段に頼るしかない状況を再現していて、医師はあくまで心理的なショック療法の一種として悪魔祓いを勧める。足が悪くなり外出できないことから孤独に陥るカラス神父の母親、そして認知症になってしまった母ともはや意志疎通できない神父。孤独死に追いやった自分の無力感と罪悪感で神父は苦しんでいた。ストーリーには老いと介護・医療の問題や不治の病の闘病記といった面もあり、いろいろと考えてしまうところがある。そして残酷な現実、報われない努力を見せつけられ思わずこちらは怯んでしまう。

メリン神父が悪魔に蹂躙されている母子の家に到着し、門から2階の部屋を見上げるシーン。通常神父が見上げるのは神の居る天上のはずだが、視線の先には神の不在が囁かれる現代の闇の中では悪魔が少女の体を借り挑戦を待っている。そして2階から出ている冷たい光はメリン神父をシルエットにしている。禍々しくも不思議な雰囲気だった。

悪魔の狙いは神の不在を感じさせ、人それぞれの不安や願望に付け入り、善なるものへの信頼を損なうこと。悪が信仰よりもしっかり存在するように見える時、誰に祈ればいいのだろう。罪のない人が無意味に苦しんでいるような状況で何を頼りに生きていけばいいのだろう?それに立ち向かうのはやはり善きもの、善き人への信頼だと思う。悪魔の所々真実が混じった虚言は詐欺師のように人を惑わし、悪魔と会話してはいけないとメリン神父は諭す、それは日常での甘言妄言に耳を貸さない、言い換えると常日頃からモラル高く自信をもって生きていく大切さの説話にも聞こえる。

悪魔についての情報は少ない、気が付けば家の2階で娘が悪魔に苦しめられているそんな状況が日常にふっと湧き出るような不条理な話だ。その代わり、カラス神父の信仰を失っているさま、心の迷路をさまようさまが描かれている。神父相手のカウンセリングでも効果を感じることが出来ず、自分の母親すら孤独から救えない。それでもリーガンを助けるために始める悪魔祓いを通じて心の中の使命、輝きを取り戻していく。利他的な、弱者救済の中で再び眩しさを取り戻していくカラス神父の心の輝き、典礼書を唱える表情の熱さ。それは自身のなかでの絶望を乗り越えるエネルギーになっている

階段を昇り降りするシーンがとても多い。夢の中でカラス神父の母親は泣き叫びながら地下へと消えていき、それをカラス神父は止めることはできない。瞬間的に出てくる悪魔の顔がまるで母親に化けているような、母親を連れて行ってしまうような印象を与え、カラス神父のメダルも地に堕ちてゆく。普通の家が生活の場と神と悪魔の闘争の場に分けられてしまい、リーガン家の階段はメインの主戦場である子供部屋=非日常とロビー=日常を繋ぐ役割をしているようにも思える。例えば2階で夫婦喧嘩していたり、面接等の緊張を強いられる出来事があると部屋に至る廊下がたった数mなのに足どりが重く異様な存在感を持つことがある、そんな感じだろうか?言い換えればあの階段が現世とあの世との架け橋のような異様な存在となってくる。本来地獄や悪の巣窟などは階下に位置することが多いけれど、子供部屋は2階なので悪魔と対峙するためには階段を上ることになる。カラス神父は幾度かこの階段を上り下りする、当初は精神科医として、メリン神父の到着後は助手として、最後はリーガンを託された祓い手として登っていく。子供部屋で尋常ではないリーガンに触れ悪魔の仕業という事を確信していくと同時に、リーガンを救いたいという気持ちや自分の中にある母親に贖罪したいという気持ちにも向き合う。その中で不可知な神秘を受け入れ信仰を取り戻していく。クリス娘の死を予感して絶望の言葉を口にしてしまった時、肚のきまった顔でカラス神父は神の御力を行う者として上る、言い換えればこの階段は魂の輝きを取り戻して試練の場に向かうカラス神父にとって正しくあるための天に昇っていく階段の意味合いがあると思う。この階段を下りて戻ってくることはなかったけれど、最後の赦しの告白はカラスが抱えていた母への罪悪感への赦しにもなったかもしれない。

神の存在がしっかりと明示されることはなく、悪魔の所業が現実感を持って表現され続けてきた。それでも、人は他者を助け、寄り添い、祈ることを選び、捨ててしまった信仰を取り戻す。根拠がなくてもその勇気や気高さを保ち続ける事が奇跡であり、善き事なのだろう。人間の美しさ、素晴らしさはその勇気、意志だと感じる。そしてそれは確かにあの場にはあった。

カラス神父のメダルはダイヤー神父、そしてリーガンへと受け継がれる。善は悪を退け、真摯な祈りは確かに引き継がれた、そう思う。
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