ラウぺ

市民ケーンのラウぺのレビュー・感想・評価

市民ケーン(1941年製作の映画)
4.2
映画史上最高の1本として世評名高い本作ですが、これまで観たことがなく、間近に迫った『Mank/マンク』の地元での公開を前に、予習として鑑賞。

映画の内容に触れる前に、まず作品がとっくにパブリックドメイン化しているために、さまざまなマスターが存在しているらしく、作品の古さもあってあまり程度の良くないマスターでソフト化されているものが多いようです。
私はツ〇ヤのレンタルDVDで鑑賞しましたが、コントラストは低く、黒は潰れて白は飛び、特に逆光で人を映した場面ではせっかくの俳優の表情が殆ど分からない、字幕はフィルムの焼き込み(をそのままマスターに使用)で、明るい場面では何が書かれているのか判読できない、という有様。
音声はボヤけてしまい、ボリュームを普段よりかなり大きくして英語のセリフを聞きながら字幕を解読する、という作品を鑑賞するというより昔の記録フィルムの内容を確認するかのような“作業”を強いられました。
アメリカでは2012年にリマスターされたブルーレイ(そちらはかなり画質が良いらしい)が発売されているようですが、そちらは日本語版での発売はされておらず、既発売のブルーレイも画質はあまり宜しくない、というのが現状のようです。
そういうわけで、とにかくできるだけ画質の良いマスターを使用したソフトでの鑑賞をお勧めしたいと思います。
(追記:アマゾンプライムのマスターはツ〇ヤのDVDより遥かにマシ、NHK-BSでのマスターは白飛び・黒潰れ気味でコントラストは高めですが、ディテールはしっかり確保され、音質も良好な画質です)

で、映画の内容ですが・・・
新聞王ケーンがその屋敷「ザナドゥ城」の寝室でスノーボールを握りしめながら死亡する。今際の際に残した言葉は「薔薇のつぼみ(rosebud)」。ケーンの生涯をまとめた映画を製作することになった会社の社主は「薔薇のつぼみ」には何か深いわけがあるに違いない、と睨み、編集者のトンプソンに生前のケーンを良く知る人物から取材するように指示を出す・・・

トンプソンがケーンの元妻、ケーンの後見人の銀行家の遺稿が収められたアーカイブ、新聞社の同僚たち、ザナドゥ城の執事などに会いに行き、その回想でケーンの過去を描いていく。
貧しい子供時代、母親の当てた一山のおかげでケーンは銀行家に引き取られ、その莫大な資産を継承する。小さな新聞社の社主となり、センセーショナルな記事を売る新聞屋として成功。ケーンは大統領の姪と結婚するが、売れない歌手と不倫に至る。更にニューヨーク州の知事選に立候補する・・・

トンプソンの面会する人物たちのケーン評は好悪半ばし、俗物ながら自分の信じるところを突き進む強烈な個性の溢れる人物。
ケーンを演じるオーソン・ウェルズはこのとき25歳という若さながら壮年期から老年期に至るまでケーンを演じ、その圧倒的な存在感だけでもオーソン・ウェルズの尋常ならざる非凡さの一端を窺い知ることができます。

ケーンには実在する新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストというモデルがおり、オーソン・ウェルズがハーストをモデルとしていることが知れ渡ると映画の完成前からハーストによる妨害があったとのこと。
毒があっても人として何か惹きつけずにはおかないケーンの人物像はおそらく本物ハーストの魅力と非常に近かったのではないか?と思わせるものがあります。
家柄の抜群に良い夫人がありながら売れない歌手との人ならぬ関係を突き進み、イエロージャーナリズムに手を染めつつ、新聞社の社主として自分の思うところを曲げようとしない信念の強さ、知事選への立候補も己の信じるところを政治に反映させたい、という強い信念あっての行動のように見える。それがまた一般の思う政治家の理想像とも一致しない、というところがまた不思議な魅力を放つのです。

他に並ぶ者の居ない大富豪となったケーンですが、その有り余る富に反比例するかのように心に吹く隙間風の侘しさ。
巨大な邸宅のなかでの孤独感の描写は一種オカルト的でもあり、晩年のケーンが満たされない思いの中で老いていく様子を一層強調したものとなっています。

特徴的な長回しやローアングル、逆光の多用、時系列のジャンプなど、今でこそ珍しくない技法ですが、1941年という年を考えると確かにそれは斬新なものであったろうと想像されます。
なにより、全て回想シーンのみで描かれるケーン像はどれもが部分的で歪でありながら、その個性的で破天荒なところが、観る者を引き付けてやまない人物であるらしいことが十二分に伝わり、高評価も頷ける名作だと確信に至るのでした。

トンプソンが面会した人物達からは「薔薇のつぼみ」の意味するところは結局分からず仕舞いで終わってしまうのですが・・・
映画を観る観客には「薔薇のつぼみ」を直接に指すものが何であるかは知ることが出来るようになっています。
しかし、その意味するところは何なのか、ケーンにとってそれが今際の際に発せられた言葉となった意味とは、観た者がその後もずっと自問自答をしなければならないのでした。

脚本にはハーマン・J・マンキーウィッツとオーソン・ウェルズの二人がクレジットされ、のちにハーストを主人公にしたのは自分だと主張し合い対立することになるようですが、そこらへんはきっと『Mank/マンク』を観てのお楽しみというところでしょうか。
感想は『Mank/マンク』を観てから書くべきか迷いましたが、後出しジャンケンのようになってしまいかねないので先にUPしときます。

本作と同時代の映画というと『風と共に去りぬ』(1939)、『オズの魔法使』(1939)、『ファンタジア』(1940)、『チャップリンの独裁者』(1940)、『カサブランカ』(1942)といった作品あたり。
どれも毛並みの違う作品であり、現在でも圧倒的な高評価を得ているわけですが、これらと比較して『市民ケーン』が突出して高評価かというと、これまた人それぞれかなと思います。
しかし、観れば観るほど味わいの増す作品であり、何度も書きますが、やはり高画質なマスターで鑑賞したい、と強く思うのでした。
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