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寒い国から帰ったスパイのsleepyのレビュー・感想・評価

寒い国から帰ったスパイ(1965年製作の映画)
4.6
私は誰あれ?  ****




  世にスパイほど孤独な「職業」はない。本作のアレックス・リーマス(リャード・バートン)、彼ほど孤独な男に映画で出会うことはあまりなかった。

1963年、東西ベルリンにおけるある任務の失敗により、ロンドンに呼び戻され、英国諜報部を追われるところからこの寒々しいドラマは始まる。そんな彼に近づくのは東側のスパイ。リーマスは東側に寝返り、情報を提供する。しかしこれは東ドイツのスパイ、ムント(ピーター・ヴァン・アイク)を陥れるイギリスの謀略・・・のはずだった・・・。

本作は冷戦まっただ中の分断都市ベルリン、小雨そぼ降るロンドン、そして灰色の(旧)東ドイツの片田舎を舞台にした、どこまでも硬質で冷たい鈍色のフィルム。血のかよった一人の諜報員の寂寥と失望を刻み込んだ108分である。
これまで多くの「スパイ映画」が作られてきた。007、ジェイソン・ボーン、ハリー・パーマー(国際諜報局シリーズ)、スパイ大作戦(ミッション・インポッシブル)、このような映画を「スパイ映画」と呼ぶなら本作をこの範疇に入れることはできない。この映画はこれらの娯楽性を一切排除するベクトルを持っている。かといってサスペンスフルな展開もなくエモーションに訴えもしない。

絵空事など入る余地なく、諜報員の性(さが)と宿命をどこまでも冷徹に切り取るマーティン・リット監督の筆さばきにため息をつく。リーマスを駆り立てるものは何であろう?国家への忠誠?恐怖?義務感?充実感?本作はこれを明らかにはしない。
鑑賞後、胸に迫るのは、諜報員の孤独と、個人の尊厳の重さである。リーマスの、そしてすべての現実の諜報員の孤独は計り知れない。この孤独は生半可な寂しさや報われなさではないと思う。ではこの孤独はどこから来るのか。それは自分を24時間365日偽ることではないか。矮小な自我を拭い去り、オペレーションどおりに行動し、キャラクターを作り上げ、止むことなく徹頭徹尾「誰か」として生きることから来るものだ。

自身と「作り上げた誰か」に引き裂かれる、あるいは併存させることが終わらない倦怠を生む。「自分の時間」などありはしない。一人の時であっても。このことは生命にかかわることなのだ。しかし彼はあくまで駒となり(それは捨て駒かも知れないのだ)、マリオネットのように任務に邁進する。信じるもの、信じる人は何もない。たとえ同僚でも上司であっても。こんな毎日が心潤うものであるはずがない。唯一わずかなりとも心を許したのが図書館員のナン(クレア・ブルーム)である。それとてアイデンティテイを押しころして。

もうひとつ頭をよぎるのは、国家・組織と個人の関係性だ。自由・個人の尊厳を標榜する国家や組織が、守るべきはずの何よりも重要な(特に当時の西側世界で)個人の尊厳を紙切れ一枚よりも軽く扱うというパラドックス。個性の埋没を強いられる諜報員は西側世界の思想と国民の生活を防御する盾となり壁・歯車となるという非情の論理。

本作はいうまでもないスパイ小説の金字塔『寒い国から帰ってきたスパイ』(ジョン・ル・カレ)を比較的忠実に、そして原作の香気とテイスト・肌触りを損なうことなく映画化したもの。監督・製作は『ハッド』『男の闘い』『ボクサー』『ノーマ・レイ』『アイリスからの手紙』など、堅実で外連味のない作風で知られるマーティン・リットである。

撮影はオズワルド・モリス!『赤い風車』『白鯨』『ナバロンの要塞』『屋根の上のバイオリン弾き』『探偵スルース』などを手掛けた、カラー、モノクロとも得意とする名カメラマン(2014年3月、98歳で逝去された。つつしんでご冥福をお祈りいたします)。本作の空気感の創出は彼の素晴らしいLookのなせるワザだ。ベルリンの監視ライト光る冷たい石畳、枯葉舞うロンドンの濡れた歩道、灰色の空、わずかに灯る街灯、夜の田舎町・・・闇の底知れぬ暗さ、重苦しいドラマながら、モリスの切り取るどこまでも冷たいモノクロのショットの素晴らしさに唸る。モリスの撮影がリーマスの悲劇性を浮き上がらせて見事。
また音楽はソル・カプラン。抑制をきかせた静かなスコアを聴かせる。意識しなければわからないほどわずかのシーンに流れる。彼の音楽も本作の完成度をより高めていると思われる。

また、主人公リーマスはリチャード・バートン以外にはないと思わせるほど適役だ。底の知れぬ倦怠を放つたたずまい、眼差し・・・ラスト近くのナンへの叫び、はじめて愚を悟った彼の叫びは、個人の尊厳に気づいた自身の真の心の声かも知れない。

陰鬱で、決して気軽に見られる作品ではないが、真摯で誠実な作品。バートンの芝居とモリスのモノクロ撮影とともに、この哀切な本作をぜひ鑑賞していただければと思う。

果たして彼が足を下ろすのは壁の向こうかこちら側か・・。この壁もいまはもうない。非情なラスト・ショットがしばらく胸にこびりついて離れない。

★オリジナルデータ
THE SPY WHO CAME FROM THE COLD (1965) UK, パラマウント、aspect ratio 1.85:1, 112min, B&W, Mono, 35mm
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