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アイズ ワイド シャットのsleepyのレビュー・感想・評価

アイズ ワイド シャット(1999年製作の映画)
4.6
役にたたない「言葉」****



   「この映画が私の最高傑作だ」とキューブリックはいった。一方「トムとニコールが目茶目茶にした完全な失敗作」とも。「世に解釈を巡って論争が起きる映画はゴマンとある。「あれは〇〇だ」「いやこれは□□なんだ」「いやこれはそもそもテーマを云々する映画ではなくて云々」。その中でも失敗しているという人と成功しているという人がいる。本作はキューブリックの遺作であり、上記のような論争がおきた。しかしキューブリックがリアルタイムで理解され多くに受け入れられたことがあったか。年月を経て賛同者を増やしていったのではなかったか。

クリスマス・イヴ前夜、冒頭、ショスタコーヴィッチ『ジャズ組曲第2番ワルツ2』が流れる中、N.Y. の開業医ビル・ハーフォード(クルーズ)とアリス(キッドマン)夫婦が友人ジーグラー(シドニー・ポラック)の催す超ハイソなパーティに出かけるところから始まる。

不思議な映画だ。いつものキューブリック作品のような泳ぐように人を追うカメラ。さまざまな色調が支配する照明。シンメトリー構図の多用。長廻し・・。これまでキューブリックは自作の中で新しい技術を使い、またショッキングなテーマ、表現を用いてきた。

夫婦の倦怠、おさまらない欲望、嫉妬、妄想、永遠にわからない異性。また、越えられない階級の壁、闇の中の結社の存在、多くの人が知らないし知らされない世界、夜の人々、夫婦の秘密、仮面をつけた生活。フロイト、深層心理・・。世界の水面上と水面下どれもしっくりこない。言葉で表すととたんに陳腐に聞こえるジレンマがある。ラストの2人のやりとりも実にありきたりで、そのまま受け取るとすればキューブリック作品にしては生臭い。そしてラストの一言は〇〇〇〇。

この映画ははどこかおかしい。まるでどこか深い深い水の底を歩いているような浮遊感。どこか他人の夢の中を歩いている気にさせられる(本作は1926年のアルトゥル・シュニッツラー『夢小説』(未読)にインスパイアされた脚本)。現実世界を描き、整合性の均衡がとれている(ように見える)のにときおり感じられるこの非現実感・居心地の悪さ。果たしてこれはビルの夢なのか。映画は現実と妄想の間を行ったり来たりしているのか。

眼を開けてみる夢、妄執。「生きていてよかったな」という新聞のヘッドライン。ベッドの上のあのパーティのマスクが意味するもの。ビルに仮面をつけろといっているのか。それともつけていたビルがはずした仮面か。

以下、★まで核心に触れた(?)私見です。未見の方はご注意ください。
夫婦の高級マンションの中の描写がどこかおかしい。「あれここ朝だったっけ?」・・。陽が出ているのか出ていないのか。夜のはずなのに窓が薄明るい。ビルは夜を経巡るが、どこか劇中の時間の流れがおかしいような気がする。延びたり縮んだりしているというのか、時刻の感覚が麻痺するというのか・・。

映画の始まりが12月23日の夜。日付が変わり夜が明けて12月24日、クリスマス・イヴ。
2人が口論をして日没、ビルは仮面パーティに行き深夜に帰宅。
日付が変わり12月25日、夜が明けてクリスマス。朝からビルは昨夜の足跡をたどりいくつかの事実(らしきもの)を知る。
クリスマス日没。日付が変わり12月26日、夜が明け帰宅したビルは口論の後の出来事を告げ泣いて妻に詫びる。
しかしアリスはこういう。「娘が楽しみにしてるわ。クリスマスのプレゼントを買わなくちゃ」。
そして3人でクリスマス商戦でにぎわうおもちゃ屋へ行くが(ここで先のラストのやりとりがある)・・??1日計算が合わない。なんだかラストの2人のやりとりも違って聞こえる気もする。★

これはどういうことか。一見わからないようにパズルのピースがばらまかれているはず。2人の服装や視線、日光、時計。場面転換のパターン・・。本作でキューブリックは(休日も含め)のべ400日以上を撮影に費やし、編集は自らが1年かけて行った(クレジットはナイジェル・ガルトとなっているが)。キューブリックがこのような気合が入った状況で編集ミス、日付を間違うなんてことは考えにくい。私が数え間違っているのか、監督の単なるイタズラなのか。

時計の針が不規則に回っているような変な映画だと思う。これは「時間」にかんする映画か。ちなみにキッドマン扮する妻の名は「アリス」。原題はEyes Wide shut. 「大きく眼を閉じろ」「大きく閉じた眼」。これ自体が矛盾した表現。お前は何も見ていない・・。

ちなみに、ショスタコーヴィッチ『ジャズ組曲第2番ワルツ2』(Dmitri Shostakovich『Jazz Suites No.2 Waltz 2』)と、リゲティ(この人の別の曲を『2001年宇宙の旅』『シャイニング』でもキューブリックは使った)『ムジカ・リチェルカータ』(Gy'rgy Ligeti『Musica Ricercata』)の響きが全編を支配していて効果的だ。youtube等でも聴くことができるので雰囲気を味わってみてください。これらの曲を耳にすると「あ、ショスタコーヴィッチ(あるいはリゲティ)」ではなく「あ、アイズ・ワイド・シャット!」とか思ってしまう。いつもながらキューブリックの音楽選択センスは恐ろしい。

キューブリックは本作の0号試写の5日後に急逝する。もう本人からなんらのヒントももらえないが、容易に答えはでない。といいつつ再びディスクをトレイに載せてしまう。
性を扱い、画面で見せながらこれほどセクシーさを感じさせない映画も珍しい。これは性を描いた映画ではない。しかし、映画の中で女性がおしっこしてティッシュで拭くシーンを描いた初めての映画ではないか。
映画はテーマ、筋や整合性ではない。何かをいうために撮るものでもない。世界に違うルックを与える。映画はそれでいいじゃないか。
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