晴れない空の降らない雨

モロッコの晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

モロッコ(1930年製作の映画)
3.0
 ジョセフ・フォン・スタンバーグは、ドイツ映画『嘆きの天使』を撮った同年に、それも同じマレーネ・ディートリヒを使ってアメリカ映画『モロッコ』を撮っている。こうして本作は、ディートリヒのアメリカデビュー作となった。
 そんな2つの作品、2人のディートリヒを続けて観ると、スタンバーグがドイツとアメリカという2つの国の観客向けに、スタイルとスターをどのように使い分けたかがよく分かる。『嘆きの天使』がいわば「ジャーマナイズ」された作品であるとすれば、本作からは「アメリカナイゼーション」というものを思い知ることができるわけだ。
 
■女性
 本作のディートリヒは、本作と同じくらい退屈である。『嘆きの天使』で我々をたじろがせた、彼女の暴力的で破滅的な魅力はいとも容易く失われてしまった。
 代わりにここにいるのは、こんな女性だ。登場時点では独立心があり気が強く、男性を信用していない。しかし、それは昔受けた心の傷ゆえのものであり、本当は運命の出会いを求めている。ついに再び愛すべき男を見つけるや、自分のために働く女は、待つ女、追いかける女に、転身する。
 ここにあるのは、ひとりの女性というより、ひとつの「イメージ」だ。すでに出来上がっている予定に調和するイメージなのである。『嘆きの天使』のディートリヒはそうではなかった。彼女の肉体、動作、歌やセリフ、衣装、口から吐き出すタバコの煙……そしてあの哄笑は、観る者を攻撃する具体だった。
 
■植民地
 いささか学生のレポートの真似事みたいになるが、ここまで来ると、「モロッコ」という舞台選択に、ディートリヒという女性に対するのとパラレルな視線を見いださないほうが難しい。すなわち、本作のモロッコもまたひとつの具体的な場所ではなく、単なる「異国」のイメージに過ぎない。
 
■移動撮影
 これら2つを撮影するにあたって、臨場感を出すために本作はドリーショットを重用している。オープニングでは、見るからに貧しい現地の身なりをした男がラクダを引っ張っている。俺が「イメージ」という言葉で言いたかったのは、こういうことだ。奥から白人たちの現地部隊がやってくると、カメラは彼らに合わせて後退を始める。そうして、モロッコの白い街並み、白い衣装の人びと、商売女などを1つひとつ画面に収めていく。
 そこからしばらく目立った使用はないが、後半になってディートリヒが一兵卒(ゲイリー・クーパー)への愛に目覚めるとドリー撮影が復活する。街や病院でクーパーを必死に探す、愛に生きる女の焦燥・不安を、カメラはじっくりと味わっていく。
 もちろん、こうしたロングテイクは、リアリズムとはほとんど何の関係もない。つまるところ、「編集」は撮影と同時に終わっているのだ。アメリカ人たちの思い描く「イメージ」に調和するように、すべてが用意されているのだから。