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気狂いピエロのwigglingのレビュー・感想・評価

気狂いピエロ(1965年製作の映画)
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寺尾次郎さんによる2016年新訳にて。これも何度観たか覚えてませんが、『勝手にしやがれ』よりは多いはず。

最初に観たのは20代だったと思いますが、その時は1ミリも分かりませんでした。ポップアート的なビジュアルと抽象的な台詞こそが本作の真髄であると勘違いしてわかったフリをしてました。
いや、それも間違いではないんですけどね。

でも歳をとり知見が増えるにつれ、そんなのはただの表層にすぎないことがわかってきます。さらにゴダールとアンナ・カリーナの関係を知ることでそれが確信に変わってくる。フェルディナン(ジャン・ポール・ベルモンド)はゴダールの分身なんだということが。

そして、本作は『勝手にしやがれ』の変奏でもあるんですね。ミシェルも実はゴダールの分身だった。アメリカ狂いの映画馬鹿はゴダール自身ですよ。
フェルディナンはゴダールのもう一つの面、屁理屈をこねくり回して気取ってるクソ野郎です。そんなダメな自分が妻であるアンナ・カリーナに徹底的に否定され、愛想を尽かし別の男と逃げる妻を撃ち殺し、自分もダイナマイトで自殺するという自分殺しの話ですよ。

冒頭のパーティーに登場する映画監督サミュエル・フラーの言葉、「映画は戦場であり、愛であり、憎しみであり、暴力であり、死なんだ。つまりエモーションだ」はゴダールの映画を否定する言葉です。本ばかり読んでて言葉をいじくり回すフェルディナンに重ねてるんですね。

そんなフェルディナンにマリアンヌ(アンナ・カリーナ)は自分を愛してくれと訴える。言葉じゃなくて生活の中で愛を感じさせてくれと。
彼女は感情の人で音楽が大好き。歌い踊って楽しく暮らしたい。度々訪れるミュージカル風シーンは彼女の願望です。
それなのにフェルディナンは南仏の海辺でよりによって本を書き始める。じゃれつくマリアンヌを執筆の邪魔をするなと突き放す。

この辺りはゴダールとアンナ・カリーナの実生活を描いているんでしょうね。劇中の台詞もおそらく夫婦間で交わされたものでしょう。
自分がゴダールに言った言葉を映画の中で再びゴダール(の分身のベルモンド)に言い放つ、アンナ・カリーナの気分はどんなものだったでしょう。

そして馬鹿馬鹿しくも悲劇的なラストを迎える訳ですが、ここでマリアンヌを殺しフェルディナンも死ぬ事が大事なんですね。
自分の分身を殺すことは、新しい自分に生まれ変わること。過去を捨て去り新しい段階に進むための儀式です。
そして妻のアンナ・カリーナを劇中で射殺することでやっと彼女を吹っ切る事ができる。

いやぁ、この名作がこんなにも個人的な映画とは思いませんでした。自分の私生活をここまで晒すのかと。
でも往々にして名作ってそうである傾向が強いんですよね。
映画作家って本当に業の深い生き物だなぁと。
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