晴れない空の降らない雨

モダン・タイムスの晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

モダン・タイムス(1936年製作の映画)
4.2
 終盤のインチキ外国語歌唱で、「放浪者チャーリー」というペルソナに対する、チャップリン本人の自己意識が現れていて興味深い。チャップリン喜劇において彼自身が演じる主人公は毎回別人である。しかし、どの映画でも同じように振る舞い、ドタバタを引き起こすこのキャラクターのことを、そんな風に認識している人間は誰もいない。そういう世間一般の認識を、チャップリンは利用するようになる。
 本作の最後の最後で初めてチャップリンは、デタラメな外国語の歌という仕方ではあるが、何にせよ自身の声を披露する。これが効果をあげるのは、「話さない」という彼の特徴が観客らに周知されていて、その上でお約束を破るからだ。
 最も政治的な映画『独裁者』では、チョビ髭という共通点を使って、チャーリーという道化の像と、ヒトラーという指導者の像とが、観客の心のなかで重なるように仕向けている。それにより、威厳と威勢に満ちたヒトラーのイメージを失墜させるという戦略である。
 また『ライムライト』では、落ちぶれた老芸人を演じることで、チャップリンは自分自身のイメージを解体しようとする。
 こう書いてみると、北野武はチャップリンを真似てみたくなったのかもしれない、などと思った。
 
 話を本作に戻すと、冒頭でいきなり家畜と労働者の群れをオーバーラップさせたのがエイゼンシュタインっぽくて、その後かれが共産主義者扱いされて国外追放された件を想起させた。しかし、あとは概ねいつものチャップリン劇場で、ギャグとロマンスのセットだった。チャップリンの映画は、やっぱり舞台の延長だから映画としてのテクニックは乏しく、そういう意味では大して面白くない。それにしてもあの女優(当時の妻)を10代の少女として出すのはいろいろキツいというか、自重しろよというか。
 イデオロギーという観点でこの映画が最も危険なのは、「刑務所のほうがシャバより過ごしやすい」とチャップリンが考え、捕まるために無銭飲食を働くところだろう。この考えは、もはや自分が社会に庇護されていると信じられない人間にとって真理である。そして、その真理に愚直に則った行為は、法が絶対的な真理ではないという、我々が普段は目を逸らしている別の真理をも露呈させてしまう。要は社会に対する暗黙の脅迫になりうるわけで、秩序にどっぷり浸かる側の人間には耐えがたいことだろう。
 自分はといえば、ルサンチマンとか何とか言われようが、せめて芸術やフィクションくらいはアナーキズムと反骨精神をもち続けていてほしいと思うものである。