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エレファントのkuuのレビュー・感想・評価

エレファント(2003年製作の映画)
4.0
『エレファント』
原題Elephant.
製作年2003年。上映時間81分。

全米を震撼させたコロラド州コロンバイン高校の銃乱射事件に衝撃を受けたガス・ヴァン・サント監督入魂の問題作。
彼は世界に向けて『なぜ?』と問い続ける。
素人の高校生の実体験から真実の言葉を引き出した本作品は、2003年のカンヌ国際映画祭で史上初のパルム・ドールと監督賞のW受賞という快挙を果たしたっす。
“あの事件”の脆くて傷つきやすい少年達の日常がリアルで切ない。
静かだが強い衝撃を残す多くが即興の米国製傑作。

オレゴン州ポートランド郊外の高校。ジョン(ジョン・ロビンソン)はアル中の父親のせいで遅刻し、イーライ(イライアス・マッコネル)はカメラ片手に公園を散歩。
いつもと同じ一日のはずだったが。。。

今作品は、多くの評論家やアナリストが指摘してるように、コロンバイン事件の疑似ドキュメンタリーを意図したものでじゃないと思う。
今作品が、この悲劇に触発されたことは間違いないやろけど、監督のガス・ヴァン・サントはこの作品を、暴力の本質と無関心の影響についての考察にしたいと考えてのことやと思います。
当初は、コロンバインの事実に基づいたテレビドラマを作ることだったという噂もあったそうやけど、この噂には根拠はナシ。
この映画のミニマルなアプローチ、
即興的なスタイル、
ほんで役者じゃない人々の起用(ほとんどの子供たちは俳優じゃなく、実名で出演)。
今作品は、小生が今までに見た映画の中で多面的な作品のひとつやし、
同時に高校生活の寓話的なタペストリーであり、
銃による暴力的な不気味でミステリアスな描写であり、
容赦なく奇妙な形式的な運動でもあるかな。
もちのろん、これは適切な合成があって初めて機能するものやし、これらの芸術的かつ半政治的なアイデアの融合が、
矛盾した美と醜、
無関心と悲劇の映画を生み出したんやと思う。
意図や意味はともかく、画面に映っとんのは監督が見せたかったモンやと感じられるし、何よりも有能な人の手によるこの作家性は、見ていて飽きひんかった。
(ガス・ヴァン・サントの友人であり、作家兼監督のハーモニー・コリンが書いた短編小説に基づいています。)
こんな恐ろしい事件の動機や根本的な原因は推測に値するけど、今作品はこの不確実性の領域に巧みにとどまってます。
何か一つの要因に責任を負わせることは、通常は不正確であり、ほとんどの場合、芸術の場合は政治的に単純で説教くさいものやと理解しているからっすね。
本来、人が精神病院に収容されるような心理社会的なヤバい警笛を除けば、このような銃乱射事件が、数人の悪いリンゴを取り除くだけで、あるいは1つの単純な問題の根を断つだけで防げると考えるのはナンセンス。
金八先生も云ってた。
犯人たちの物語を、彼らの同級生や犠牲者の物語と同じように、距離を置いて観察しながら扱うことで、監督は恐ろしいほどの類似性を伝えてるかな。高校時代にありがちな問題や、
暴力を引き起こす可能性のある問題(摂食障害、いじめ、暴力的なゲーム、LGBTの受け入れ不可、親の怠慢や不適合など)を静かに目にすることになる。
これらの問題の中には、銃撃犯や他の生徒に特有のものもあるけど、銃撃犯がこれらの問題をより深刻に、あるいは顕著に経験しているという感覚はないと思う。
ミッシェルのキャラを見てたらそう思うかな。
彼女は少なくとも銃撃犯たちと同じ程度のいじめを経験しとるし、友と呼べる仲間もいない。
因果関係の説明を明らかに避けて物語を書くってことは、無責任でも怠惰でもなく、また、意味がないとか気取って混乱しているんやと批判されることも多い。
数多くのインディペンデント映画に見られるような、芸術的で冷たく曖昧な感性の問題でもない。
人間の最も恐ろしい欠点のいくつかは、予測したり簡潔に説明したりすることができひんちゅうこと、それを認めることは、芸術的にも政治的にも勇気あることやと思います。
ほんで今作品は、答えのない思考の材料を鋭くさせる方法で、より作為的なものよりも多くの洞察を与えてくれました。
あからさまに学校での銃乱射事件を題材にした映画としての位置を超えて、今作品は思春期の経験を文章化から映画化し、歪曲してる。
暴力の側面を比喩的なものとして使用してるけど、文字通りのインパクトは一瞬たりとも損なわれてへん。
この時空の連続体てのは、非線形で洞窟のようであり、スクリーン上で高校を定義するような、明るい教室や整然とした構造じゃなく。
カメラは常に背後から被写体を追い、彼らは迷路の中で迷子になった魂のように、一連の長くて何の変哲もない連結した廊下を彷徨う。
学校てのは、常に変化し続ける環境の中での移ろいの場やし、授業中のシーンはいくつかあるものの、ほとんどの場合、学生たちが社交的になったり、より内省的な瞬間を観察してる。
何もない空間を歩き回ったり、より快適な場所で手を動かしたりしている。 ここでの演技や会話を、信憑性や正確性に欠けると批判するのも目にしたけど、個人的には物事そのものよりも物事の表現を見せることに長けていると感じたかな。
今作品のキャラと空間はレトロでコミカルな話し方や服装、絶え間ない反復と疎外感、さらには、鬱積した怒りや攻撃性が有害なものとして現れる方法などで、思春期の描写としても機能してる。
この映画の銃撃戦は、まさにその現れであり、不満の爆発であり、米国の高校の閉塞的な正面のデザインを破壊する衝撃的なものである。
今作品はこれらを真面目に、そして美学的に正確に行ってるし、それは、この映画が常に真面目で陰鬱な映画であるということじゃなく、その主題を本当に重要なものとして扱っているということであると思います。
ほとんどドキュメンタリーのようなビジュアルスタイルの下に潜む精神的苦痛の深さを示して、これが実際には、現実ではなく芸術作品であることを観てる側に思い出させる作品でした。
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