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アメリカの戦慄のFilmomoのレビュー・感想・評価

アメリカの戦慄(1955年製作の映画)
4.6
①大学の法学部の講師のグレン・フォードは、裁判の実務経験を積む必要があり、アーサー・ケネディの法律事務所で弁護士として少年犯罪の事件を担当する。その事件とはプライベート・ビーチで17歳のメキシコ人の少年が白人の少女を殺したというものだった。しかし収監所で面会し、事情を聞くと、キスをしただけで彼女は逃げ、追いかけたら死んでいたと少年は証言した。少女の死因は少女の持病と関係し、ビーチの長い階段を駆け上がったことで心臓に大きな負担がかかった可能性がある。しかし町では強い偏見が渦巻き、少年を死刑にせよとの声が高まる。挙句の果てには町民たちは大挙して少年が勾留されている建物に押しかけ、リンチに合わせようとする。それを見てグレン・フォードは怖気づき「この裁判はもっと経験豊富な弁護士がやるべきだ」とアーサー・ケネディに言うが、ケネディは強引にフォードを担当弁護士にし、自分は少年の母親を連れてニューヨークへ金策に向かう。②裁判の初日、陪審員の選定で、人種偏見を持っているかを詰問する。判事は黒人だが、それは黒人がメキシコ人に対して死刑判決を下したとしても人種差別だと糾弾されにくいからだ。このようにこの裁判のテーマは人種偏見であることは明らかだ。ケネディの方は「民衆の党」の党員を動員して「無実のメキシコ人少年を救おう」という集会を企画し、支援を集め弁護士資金の募金を募る。だがこの党員の多くは共産主義者で知られている。これで集まったカネは汚い金だと考えるグレン・フォードはアーサー・ケネディに楯突く。「共産主義者」は悪で、悪から集めたカネは悪だというグレン・フォードの考えがこの映画をより複雑にする。フォードの役は正義感に溢れる学者だが、リベラルでアメリカを愛するあまりに共産主義を嫌っている。その彼が集会において共産主義者の前でスピーチをするはめになるが、アーサー・ケネディは彼が共産主義を批判し始める前に音楽を高鳴らせてうやむやのうちに降壇させてしまう。やり手のケネディは集会で大金を集めることに成功する。(この時のケネディの演説や寄付の募り方がすごい)③中盤からは人種偏見の裁判というテーマは薄れ、共産主義を糾弾するようなやり取りが続く。アーサー・ケネディの秘書のドロシー・マクガイアも元共産主義者だと告白するが、党員にはなれなかった背景が語られ、その説明が共産主義者への批判となる。これでいったん共産主義の糾弾は決着し、いよいよ裁判に向かう。といってもこれまで延々と陪審員の選出に時間を費やしてきただけ。いよいよ裁判が始まると、「わずかな証言」をもとにグレン・フォードは真実を見出していく。この「わずかな証言」は、冒頭のシーンですべて観客に提示されている。「助けて」という叫び声、声に反応して向けられた車のライト、こっそりとジャックダニエルを飲む男。これらの伏線が回収されていく。人種偏見を暴く法廷劇の形を取りながら共産主義を批判する映画のように見えるが、結局共産主義者がメキシコ人の無実の少年を救うための資金を捻出したことを描いている。やっていることはリベラルであり、少年の命を救うためであり、批判に当たらない。グレン・フォードが終盤でいい台詞を言う。「感情移入では問題は解決しない」その後素晴らしい演説をする。結末も余韻があり、予定調和にならない。アーサー・ケネディ、ドロシー・マクガイア、検察のジョン・ボディアク、少年の母親ケティ・フラド、裁判長のフワノ・フェルナンデス、役者もみないい。
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