晴れない空の降らない雨

映画 けいおん!の晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

映画 けいおん!(2011年製作の映画)
4.6
 山田尚子監督(というか京アニ)は作を追うごとに形式的洗練を突き進めている印象。つっても、ちゃんと追っているわけではないけど。今からみると、監督デビューを飾った本シリーズの第1期はまだ大人しいが、それでも1話からすでに、画面へのこだわりの強さは一部で話題になっていた。シリーズの最後をかざる本作もそんな創意工夫に溢れている。
 とはいえ、本シリーズの人気の源は、作り手のキャラクターへの愛情がつよく感じられることだと思う。会話や芝居からは、「この子ならここでこう言う、こう動く」といったことを大変綿密に考えてあることが伝わってくる。それぞれの性格とそのときの文脈のかけ算というか。シリーズ構成の吉田玲子および、キャラデザ・総作監の堀口悠紀子が、キャラクターを深く理解していたのだろう。
 山田監督とて無論そうだろうけれども、やはり映像としていかに完成させるかに彼女は注力するわけで、スタンスにはズレがあるんじゃないか。そうだとすると、本シリーズが「キャラ萌え」アニメだったことは、人よりも画を指向する監督に対する歯止めというかバランサーになっていたのかもしれない。
 
■動きそれ自体に感動させないこと
 そんな『けいおん!』『けいおん!!』の作画はいうまでもなくスゴイのだが、ボンズのアニメみたいにドヤ顔で動かすのではなく、よくみると日常動作が感動的にきめ細かかったり、作画を楽にするための線の節約をしなかったり。アクションアニメと日常アニメだから違って当然だが、あまり意識させないところがスゴイ。
 そもそも実写だったら動いて当たり前であって、動くことがそれ自体として価値をもつのは、アニメをアニメとして鑑賞する人間に対してだけである。おそらく、そういうアニメらしさをあまり感じさせたくないのだ。無論、だからといって実写のようなリアリティとも違う、微妙な独自の位置をめざしているのだろう。
 
■「撮られたもの」であること
 浅めの被写界深度、周辺減光、フレアなどの処理が頻繁にみられる。本シリーズの時点ですでにカメラレンズを意識した演出が京アニに定着していたことがわかる。時間帯や季節ごとにフィルターが用意され、唯たちが今まさに生きているその空間をリアルに現出させようとしている。たしか『響け! ユーフォニアム』だと撮影処理はもっと極端だったと思うので、山田というよりこのスタジオの特徴かもしれないが。それに、色指定や撮影スタッフの裁量も広そうだから、単純な作家性には還元できないかもしれない。
 また、シリーズ通じて人物ひとりをアップで捉えたショットが少なく、登場人物がなるべく複数入り込むように引きやナメで描いているのも特徴的で、それにより外側から彼女たちをユニットとして眺めているようなニュアンスが生まれる。
 
■それは常にすでに過去であること
 とはいえ、こうしたことは作品に対してどういう意味をもつのだろう?
 映像というのは基本的に、「撮影された現在」でありながら、「鑑賞されている現在にとっては過去」という性質をもつ。ふつうの映画は後者の側面を感じさせないで、「撮影された現在」が観客にとっても現在であるかのように見せかけることをめざす。しかし、『けいおん!』は両方の性質を観る者に感じさせる。
 つまり、一方では、彼女たちにとってかけがえのない現在を私たちも現在として観る。しかし、他方では、それがすでに過ぎ去った時間であるというニュアンスが画面につきまとっている。だから、「記録を観ている」といえば適切だろうか。実際、撮影という行為への自覚は、自主制作PV風のOP、部活紹介動画の制作エピソード、澪のカメラ趣味などからもうかがえる。
 
■閉じたユートピアを完成させること
 そして、『けいおん!』の閉じた感じというのは、こうした演出からも生まれるのかもしれない。ある意味、このアニメの偉大さは、時として彼女たちが第三者を寄せ付けなくなるところだと思う。たとえば傍から観ると何が面白いのかさっぱり感情移入できない場面で彼女たちは笑ったりする。そこには閉じたユートピアがある。そして、そのユートピアは、不可逆の過去=撮影されたものとして封印されることで完成するのである。
 監督は、映画『エコール』からの影響を明言しており、この映画版のEDでも遠慮なくオマージュを捧げている。たしかに両作には目に見えた共通点があるとはいえ、どちらかといえば単なるサブカル趣味の発露で、深い意味はないだろうと思っていた。しかし、以上のように考えてみると、『エコール』が描きだした少女たちの有効期限つきの閉鎖的楽園は、きわめて真剣に意識されていたのではないかと思われてくる。
 
 
■本作について
 映画の話をすると、ロンドンにいざ行くまでが長い。劇場版になっても、海外旅行という非日常体験そのものよりも、そこから軽音部の日常を改めて逆照射することに重きが置かれている。また、旅行中に成り行きで演奏することになったライブのあとに、高校最後のライブを教室でおこなう、といった点にも、その狙いがよく表れている。
 とはいえ卒業旅行ということで、そうした日常の終わりも意識されていて、唯たち卒業生と後輩である梓との関係にやはり焦点が当てられる。だから旅行中でも、梓が視点人物になることがあり、また、彼女が靴擦れを起こしたり、彼女のあだ名をもじったギャグが使われたりなど、さりげなく彼女の存在に観客の注意を向けさせている。唯の「時差=タイムスリップ」という勘違いボケも他愛のないギャグのようで、この卒業旅行がもつ意味を説明するものである。
 結局のところ、同じ「放課後ティータイム」でありながら、上級生4人の輪に入りきれない面というのが後輩の梓にはあって、「それでは梓とはどういう存在なのだろうか」が、「梓にどんな曲を贈ろうか」という問いを通じて問われている。その答えはもちろん曲名にあるように「天使」なのだが、この点を踏まえると、空(飛行機雲)や鳥といった象徴が作中に散りばめられていることに気づかされる。海外旅行(飛行機に乗る)という本作の中核をなすエピソード自体、この「梓=天使」という答えにつながっている。もちろん、こうした飛翔の諸イメージは、観る者におのずと卒業つまり別れを感じさせるものでもある。