朱音

容疑者、ホアキン・フェニックスの朱音のレビュー・感想・評価

-
ホアキン・フェニックスが自身の私財数億円を投じ、2年間に渡るすべての俳優業を棒に振ってまで世に問いたかったものとは何であろうか。

このような大々的なスケールで身を張ったイタズラを仕掛けるのは個人的に嫌いじゃない。ホアキン・フェニックスならばこのような奇行に走るのも何だか納得出来てしまうし、これをリアルタイムで追えていたのなら……、それこそ2年間本当に騙されていたのなら楽しめる要素は大いにあったのだろうと思う。
だが、周知の通り2019年公開のトッド・フィリップス監督『JOKER』での鮮烈な演技にて、アカデミー賞、ゴールデングローブ賞での主演男優賞を獲得している彼のキャリアを知る私たちにとって、本作はもはや賞味期限切れの作品であり、タネの割れた白けたマジックを観ているようなものだ。


本人によると、リアリティーショーを信じる視聴者が多いことを聞いて、では最初から意図的に人々をだましてみたらどうなるかとこの映画を企画したようだが、
そもそもこの企画は割りと早い段階からヤラセであるという懐疑を多分に呼んでいて、それも作中展開されている。実際に情報のリークがあったのか、それとも徹底して騙しきれなかった結果なのかは不明だが、意図が筒抜けである以上もはや大きな意味を成さないのは明白だろう。

結果として投じた石に対する社会の波紋と、その影響を、本人たちが思うようにはキャッチ出来ず、実験の体を成していないのだ。企画倒れという他ない。

個人的には2年間のキャリアを棒に振ってまで、本作の企画を通じてホアキンが得たもの、失ったもの、その経験則、味わった感情の数々、そういった思いの丈をそれこそ最後にぶちまけて欲しかった。というか、そこを知れなければ本作を観る意味はない。観客にそれを知らせる責任がホアキン、及び監督のケイシー・アフレックにはあったはずだ。そうでなければ単なる内輪のイタズラにすぎない。この映画が、真に社会的実験となるためには絶対に欠かすことの出来ない要素ではなかろうか。


本作を観て思ったことが2つある。
それは地位もキャリアも財産をも築いたセレブが、本気で真摯に転身を考えた際に、やはりこのような衆目の笑いものにされてしまう事態は避けられないのだろうか、という点だ。
もちろん本人にとっても、もっと上手く立ち回る努力は徹底すべきだが、だからといって何でも嘲笑のタネにしてしまう世の風潮には、どこかそら寒いものを感じずにはいられなかった。
変人、珍奇、フリークス、そういったものに徒に奇異な目を向けるだけの世間の冷たさこそ、どこか病的ではなかろうか。

もうひとつには、本作がそういう悲哀を誘う作りになっているのはもちろん前提としてあるのだろうが、ホアキン・フェニックスというひとりの人間が、本質的な意味でとても孤独で虚ろに見えたことだ。幸福なんてものは人の価値観によるものだが、彼は少しも幸福な人間には見えなかった。
どれだけ多くのものを有していても、多くの人間に囲まれていても、満たされることはないのだろうか。だとしたら成功とはなんだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら観ていたら、いつの間にか映画はエンディングを迎えていた。
朱音

朱音