朱音

レヴェナント:蘇えりし者の朱音のネタバレレビュー・内容・結末

レヴェナント:蘇えりし者(2015年製作の映画)
4.4

このレビューはネタバレを含みます

雄大にして苛烈を極める大自然の中、獰猛な生命のやり取りが繰り広げられる、圧巻の映画体験。


原作は作家マイケル・パンクが2002年に発表したウェスタン伝記小説『蘇った亡霊:ある復讐の物語』(The Revenant: A Novel of Revenge)。
本作の主人公はヒュー・グラスはアメリカ西部開拓時代の実在の猟師だ。アメリカではとても知名度のある人物で、原作は異なるが同一の人物を扱った作品として、すでに1971年にリチャード・C・サラフィアン監督によって『荒野に生きる』というタイトルで映画化されている。

彼はスコットランド・アイルランド系の両親を持つ白人で、1783年にペンシルベニア州で生まれた。猟師になる前は何をしていたかは分かっていないそうで、一説によると海賊をしていたという話もあるようだ。彼はポーニー族のアメリカ・インディアンと結婚し、猟師として生活する。

余談だが、ネイティブ・アメリカンと呼ぶべきと言う意見もあるかと思うが、広義の意味ではイヌイットやハワイ先住民まで含んでしまうため、本稿ではアメリカ・インディアンと呼ぶこととする。

西部開拓時代のアメリカでは、白人たちはアメリカ・インディアンから土地を次々と奪い、野生動物を狩りつくし、侵略していった歴史がある。ヒュー・グラスもそんな白人のひとりだが、彼を一躍有名にしたのが本作、『レヴェナント 蘇えりし者』でメインに描かれた、熊に襲われ、死にかけるというエピソードと、彼がそのまま死んだと思った仲間がヒュー・グラスを見捨てた事、だが、実はヒュー・グラスは生きており、瀕死の重体のまま約80マイル(約120キロメートル)を歩いて居住地にたどり着き、見捨てた仲間に復讐を遂げるという超現実的な逸話だ。
とはいえ、かなり脚色されているともされ真偽のほどは不明らしい。

グラスの移動距離に関しては、原作小説では6週間で約350マイル(約563キロメートル)、片足骨折で瀕死の男が回復しながら1人で東京~大阪間に匹敵する距離を徒歩で移動する訳だ。これはたとえ舗装された道でも無理だろう。
逸話であるヒュー・グラス生還伝説では、最初は距離が80マイル(約120キロメートル)だったのが、100マイルになり、200マイルになりと段々と距離が伸びていったようだ。映画では現実的に考えて、6週間で80マイルの距離を採用したようだ。実に賢明である。

ちなみに復讐を遂げた彼は猟師を続け、1833年にアリカラ族のアメリカ・インディアンに殺され、生涯を終えたとのこと。


アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥは、極めて実在感のあるリアル志向の映画作家であると同時に映画におけるマジック・リアリズムを多用する監督としても知られている。ここからは本作で表された数々のモチーフと寓意性、その意味するところを紐解いていきたいと思う。


バイソンの頭蓋骨の山。
堆く積まれたアメリカン・バイソンの頭蓋骨の山が禍々しく印象的だ。だが、この場面は史実に基づいている。

コロンブスがアメリカ大陸を発見し、ヨーロッパ各国から入植者が移住し始めた頃からすでに、アメリカ先住民族「インディアン」は"狩り"の対象であった。インディアン側も住みなれた地の利と勇猛果敢な精神とで反撃する。この戦いは「インディアン戦争」とは呼ばれているが、実質、入植者たちによるインディアンのジェノサイドだった。
その"戦争"の中で、入植者たちはインディアンの食料を絶つためにバイソンの大虐殺を行う。その結果、1890年頃にはバイソンは1,000頭以下まで激減してしまう。劇中に登場する、あの頭蓋骨の山は当時の実際の風景なのである。


ヒュー・グラスの因果。
直接手を下してはいなくとも、インディアンたちを殺すためにバイソンの虐殺をした入植者の一人でもあるヒュー・グラスは、まずクマに襲われ、重傷を負った引け目からフィッツジェラルドに委託する形で自殺を決意する。だが、その途端に息子を殺され、自分は生きたまま埋められてしまう。復讐を誓って隊へ戻ろうとすると、大自然と向き合うこととなり、熾烈なサバイバルをする羽目となる。

ここで描かれるのはグラスがキリスト教的な罪を犯そうとすること、そして"苦難"が立ちはだかるという寓意性だ。


朽ち果てた教会が意味するもの。
重傷を負い朦朧とする中、ほとんど壁くらいしか残っていない朽ち果てた廃墟で死んだはずの息子との邂逅を幻視するシーンがある。
キリスト受難の画が描かれ、鐘が残っていることから教会であることが辛うじて解る。この朽ちた教会は、ヒュー・グラスが数々の受難で失いかけているキリスト教への信心の象徴だろう。旧約聖書のヨブ記で神から理不尽とも思えるさまざまな苦難を与えられ、神に悪態をつきまくるヨブの心象と同じものだ。


本作で繰り返し登場し、ラスト近くでも印象的に語られる言葉がある。

「Revenge is in God’s hands. Not mine.」

直訳すると「復讐は神に委ねられた。私にではない。」となるが、これは宗教的に有名な一節「復讐するは我にあり」のことだろう。
この言葉の出自は様々あるが、一番有名なのはキリスト教研究者のパウロが、迫害を受けるローマのキリスト教信者に対して送った手紙(新約聖書:ローマ書)の一節だ。

これを要約すると、

「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ローマ書12・19)

「わたし」とは、神のことだ。
誰かに恨みを抱いても自分で復讐するのではなく、神の裁きに委ねなさいという意味である。
ローマ書12章は、 「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」という言葉で締めくくられている。

これらを踏まえてラストシーンを鑑みれば、グラスの決断の意味が解るようになっている。


息をしろ。できるだけ長く。
本作、『レヴェナント 蘇えりし者』はヒュー・グラスが妻から言われた言葉を回想する場面から始まる。

「息をしろ。できるだけ長く。抗ってでも息を続けろ。嵐が来たときの大きな木を思え。細い枝は折れるかもしれない。しかし、太い幹は動かず立ち続けている。」

ここで語られる"息"とはもちろん生きるための呼吸のことだが、同時に"信心"のことでもある。
人間が生きていれば非常に辛い目に会うこともある。肉体的・精神的にも苦痛を味わうこともあるだろう。だが、そのような時にも、常に息をし続け、信仰心を保ち、生き続けよ。という意味になる。

ヒュー・グラスは過酷なサバイバルを復讐を遂げるという一心で乗り越える。しかし、実際に復讐を遂げてしまえば、すなわちキリスト教的禁忌を犯し、信心は捨てることになる。家族を失った上に、信仰心まで捨ててしまえばヒュー・グラスには何も残らない。それは精神的に"息"を止めることに他ならない。

映画のラストは少々分かりにくいが、フィッツジェラルドに止めをさそうというまさにその時、グラスは周囲をアリカラ族の一団に囲まれている事に気付く。自分も殺されかねない万事休すの状況で彼はまさに「復讐するは我にあり」を思い出すのだ。仇敵であるフィッツジェラルドを川に流し、彼はアリカラ族の族長の手によって頭皮を剥がされ殺される。そしてグラス自身は見逃されるのである。
グラスが見逃された要因は、彼がいきがかり上助けた形になったインディアンの娘がアリカラ族族長の娘ポワカだったからだ。

復讐の機会を手放し、神に委ねたことにより、かくしてグラスの因果は反転することになったわけだ。

本作に度々登場するキリスト教のモチーフや台詞から、宗教的な意味を連想しがちだが、例えば「復讐してはならない」とか「自殺はいけない」といった教えはキリスト教のみならず、ユダヤ教にもイスラム教にも、『論語』や『老子道徳経』にもある、極めて普遍的な教えだ。


「レヴェナント」の英語のつづりは「revenant」だ。造語ではなく、英和辞書で調べると載っている単語で、幽霊、亡霊、長い不在から戻ってきた人を意味する。副題にある蘇えりし者そのままだ。



先述で少し触れたが、『レヴェナント 蘇えりし者』で描かれた歴史的背景をもう少し詳しく紹介しようと思う。

本作で描かれた物語は1823年の出来事だ。アメリカ独立宣言が行われた1776年から47年後、合衆国憲法が制定された1787年から36年経過している。また、1823年は欧州大陸とアメリカ大陸の相互不干渉を唱えるモンロー宣言が発表された年でもある。
主にイギリス、フランスの植民地として開発が始まった北米だが、北米植民地戦争、アメリカ独立戦争、米英戦争などを経て、アメリカは国としての力を付けてゆくことになる。調べれば調べるほど、多民族国家、銃社会、強い政府など、アメリカを象徴する事柄がここまでの時代に現れているのだ。

ここまでは、白人社会から見たアメリカの歴史である。先住民族であるアメリカ・インディアンから見ると迫害の歴史に他ならない。
その始まりからして残酷極まる。15世紀にアメリカ大陸に上陸したクリストファー・コロンブスは、数年にわたってインディアン部族を虐殺している。その後もアメリカ大陸に入植した白人から見ればインディアンは基本的に邪魔者なので、自分達に都合の良いように排除し利用している。

インディアンと白人の文化の違いから生じた摩擦が原因でインディアン戦争と呼ばれる一連の戦争に発展している。白人がインディアンの文化を正しく理解しようとしなかったことが戦争の一因になったようだ。

1830年にアンドリュー・ジャクソン大統領によって「インディアン移民法」が成立することとなる。
これは、いわゆる民族浄化政策で、「インディアンを強制移民させ、従わない部族は絶滅させる」とする政策だった。金鉱山目当てに強制移住させられるなど、明らかに白人に都合の良い政策である。本作の時代はその直前にあたる。

本作の時代では、白人とインディアンの間で交易があったり、インディアン女性と結婚したりと友好的な関係もあったようだが、映画で出たアリカラ族のように敵対する部族もいた。映画のアリカラ族はフランス人ではない白人を見つけると問答無用で襲いかかっていたが歴史的経緯を考えると無理も無い光景なのである。

アリカラ族について。
アリカラ族は元々温和な部族であったそうだが、白人によって土地を追われ、アリカラ戦争(1823年)と呼ばれる戦争にまで発展している。その戦争は映画の冒頭で罠猟師隊がアリカラ族に襲われる直前に行われてたようだ。

その後に疫病などで人口が激減したものの、現在までアリカラ族はその言語とともに生き残っているらしい。もちろん映画でも彼らの知識が反映されており、アリカラ族歴史学者がアドバイザーとして参加している。

毛皮交易。
映画の冒頭で罠猟師隊が獲物をさばいて毛皮をまとめている場面がある。この毛皮は主にビーバーの毛皮で、16世紀以降、ヨーロッパで帽子の材料として使われた。ビーバー・ハットと呼ばれていた帽子は、名前の通りビーバーの毛皮で作られていたが、乱獲によってビーバーの数が激減し、代わりに絹(シルク)が使われるようになったことで、現在はシルクハットとして定着している。

需要が減少したことでビーバー乱獲の時代が終わりを告げ、その後は生息数が回復してゆく。

そして同じように乱獲されたのが先述したバイソンだ。インディアンが食用とし、毛皮(テント、服、靴)、骨(やじり)などを利用していた。白人も毛皮目的で狩猟を行うようになり、乱獲が始まる。
皮肉なことにインディアンも白人から日用品や酒、銃器を交換するために乱獲しているのだ。最終的には、娯楽のための狩猟やインディアンを飢えさせるために殺すなど、激減してしまうこととなる。

現在は、イエローストーン国立公園などの保護区が設置され、生息数がある程度回復しているそうだが、白人移入前は6千万頭いたと推測されるため、それには遠く及ばない。

グラス達が所属していた罠猟師隊は、ロッキーマウンテン毛皮商会(アメリカの会社)に雇われたメンバーだった。他にもフランス、イギリス、オランダなどの企業が毛皮交易のための会社を作っている。その内のハドソン湾会社は、北米大陸最古の現存する企業だ。

先述したとおり、毛皮目的の獣(けもの)の数がやがて激減し、19世紀半ばには毛皮交易も下火になる。原作小説でも獲物が取れず苦労する様子が描かれているようだが、本作の時代はまだ毛皮交易が盛んであった頃の物語だ。


さいごに、
本作は、実在したヒュー・グラスの残した伝説的逸話を、レオナルド・ディカプリオを含めたキャストや、撮影スタッフらの総力が体を張り、情熱を燃やした、文字通り生命掛けの撮影によって映画史に残したレガシーだ。
徹底的にリアルを追究した撮影は実際の自然環境と同じ場所で行われ、自然光だけで撮ることにこだわったゆえに1日のうち数時間しか撮影ができず、結局当初の期間内に撮影が終了せず、スタッフが帰ってしまうという事態が発生したようだ。当然のことながらスタッフからの不満も多かったらしく完成しただけでも凄いといえる。
だが、芸術の世界に「頑張ったで賞」は存在しない。イニャリトゥ監督のすぐれた作家性と信念が2年連続のオスカーを齎したのは言うまでもない。
エマニュエル・ルベツキの撮影賞も納得の垂涎ものの映像美だ。本当に素晴らしい作品だった。
朱音

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