朱音

バルド、偽りの記録と一握りの真実の朱音のネタバレレビュー・内容・結末

4.1

このレビューはネタバレを含みます

前々作『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014年)で、主人公リーガンの抱える苦悩や逆境を、そのまま自身の実人生と重ね合わせるメソッド・ディレクティングによって表現し、映画による現実への克服のアプローチを試みたイニャリトゥ監督、アカデミー賞を複数回受賞してもなお、いや、むしろそうした功績があればこそ、現実と、イニャリトゥ監督の内部が希求する真実とのギャップによる苦悩はなお深まるのか、またもや自身をテーマにした作品を作り上げたようだ。

それも今回はよりダイレクトに、だ。
『バードマン 〜』評でも私はフェリーニの『8 1/2』(1963年)や、ゴダールの『気狂いピエロ』(1965年)を引き合いに出したが、ひねくれたユーモアと映画的アイデア、ウィットに富んだ『バードマン 〜』と比べると、今作のタッチは監督の迷走をそのまま形にしたような所感を持つ。ゆえに、『8 1/2』や北野武監督の『TAKESHIS'』(2005年)、『監督・ばんざい!』(2007年)、あるいはアレハンドロ・ホドロフスキー監督の『リアリティのダンス』(2013年)、『エンドレス・ポエトリー』(2016年)への近似性が顕著に感じられる。

イニャリトゥ監督は、

「数年前から私は自分の過去を遡ってみたり、内側から探索したりするようになりました。どの道も捉えどころがなく、まるで迷路のようです。前もってお伝えしておくと、私は今でも自分の過去に絶対的な真実を見つけることはできていません。ただ、そこには現実と想像の間の旅、つまり"夢"があるだけです。夢は、映画と同じように、リアルに見えても真実ではありません。本作は、その境界が判然としない2つの幻影の間における旅の記録です。」

と語り、監督自身が試みた過去の自分と向き合う経験が、本作のテーマとして落とし込まれていることを明かしている。

自問自答とは、自己の中にだけ生じる問いとの向き合いだ。それは他者には解し得ないことであり、例え答えに辿りついたとして、自らが導き出したその答えの責任を負うのもまた自分自身だけだ。逆に自分を越えて広範に影響する問題については自問自答とは言わず、多くの人間同士で合意形成を取りながら判断する。本作が、他者への理解を容易にしないのはあくまで、自問自答の物語だからだ。作られたことに価値が生じる作品ではなく、作ることが、監督本人にとって意味のあることなのだ。

要するにこの映画は、自伝的という意味においてもなお、例えば最近でいうとアルフォンソ・キュアロン監督の『ROMA / ローマ』(2018年)やケネス・ブラナー監督の『ベルファスト』(2021年)といった、自身の故郷愛を懐古や慈しみとともに叙述してゆく類の作品とは意味が全く異なる、人生の総決算ともまた違う、キャリアの過程でこんがらがってしまった自分を解きほぐすような作品であり、自分自身のメンタルに向き合って、実存的危機を乗り越える、『バードマン 〜』でみせた映画から現実への克服のアプローチを、より一歩踏み込んだ実践したような、いわば"箱庭療法的"な作品といえるのではなかろうか。


そこで、この映画はまず何より、監督について言及、把握しなければならない。
その人、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ。
1963年生まれのメキシコ人で、大学を卒業後、音楽専門のラジオ局に入り、DJから始めてディレクターとして番組作りを担当。さらにはミュージシャンとしてメキシコ映画の映画音楽を担当した後、90年代に映画会社を立ち上げ、製作者としてキャリアをスタートさせた。
2000年に『アモーレス・ペロス』で長編映画監督デビューし、高評価を獲得。2003年の『21グラム』、2006年の『バベル』、2010年の『BIUTIFUL ビューティフル』と、その独特の作家性を維持したままアメリカでも活躍を広げ、稀有な才能として突出している。
そして先述の2014年『バードマン 〜』と2015年の『レヴェナント 蘇えりし者』でアカデミー監督賞の2連続受賞を果たし、名実ともに最も成功した監督のひとりとして立ち位置を獲得した。

そのイニャリトゥ監督だが、最近は2017年にVRインスタレーション作品、「CARNE Y ARENA, Virtually Present, Physically Invisible」を手がけるなど、新しい挑戦もしていたようだ。
そうして2022年になって長編映画の世界に舞い戻ってきた、それがこの『バルド、偽りの記録と一握りの真実』である。

"バルド"とはチベット語で、仏典(チベット死者の書)の説く前世の死から次の生に生まれ変わるまでの間のことを指す。漢語では"中陰"または"中有"と訳されている。製作前のレポートなどで「Limbo」(キリスト教の"辺獄")と呼ばれていた本作が、最終的に『バルド』に変わったのは、先住民の文化をキリスト教徒の西洋人が征服し、搾取し、破壊しつくしたアメリカの歴史を踏まえて、キリスト教的な表現を避けたのだろう。

鑑賞後に"バルド"の意味を知ると、確かにシルベリオの旅は、死から再生へと向かう魂の旅だ。
産院で今にも生まれようとした赤ちゃんが、外の世界が嫌で、また"バルド"に戻ってしまう場面の意味が分かってくる。

映画は、そんな彼の旅を追い、時間と空間を自由自在に行き来しながら、メキシコとアメリカ、白人と先住民、夫と妻、父と娘、父と息子、芸術家とジャーナリスト、そして生と死、二つの対立軸の間で翻弄されるシルベリオという人間を、壮大なスケールとファンタスティックな映像で描き出していく。

『バルド』には明確なストーリーラインがなく、シルベリオの内的世界を連想ゲームのように綴っていく。意識の連なりがシームレスに流れていく感覚は、ちょうど『バードマン 〜』で、元スーパーヒーローの復活を1カットで追いかける感じと少し似ている。


飛翔する影。
映画は見たこともないショットで始まる。何者かが息を切らしながら荒野をジャンプする"影"(姿ではない)が、荒れ果てた大地を上下する。あたかもそれは、成功を夢見て故郷のメキシコから世界へ飛び出した主人公のはやる心と、掴みきれない実感を表しているかのようだ。
3度目の跳躍でそのまま飛翔する様は、ひょっとしたら監督のフィルモグラフィ3作目の『バベル』(2006年)で商業的成功を収めたという暗喩なのかもしれない。

「バルド」についてもう少し詳しく説明すると、「バルド」とは「中陰」と呼ばれる仏教用語の一つで、「有情(一切の生きとし生けるもの)」が生と死を繰り返し流転しているという思想が根底にある。
この流転の中で「四有(4つの生存)」の中で「前世の死の瞬間(死有)」から、「次の生を受ける刹那(生有)」までの時期のおける「幽体」の状態を言う。

「四有」には、
死んでから次の生を受けるまでの期間「中有(ちゅうう)」
生を受ける瞬間「生有(しょうう)」
生を受けてから死ぬまでの「本有(ほんぬ)」
死ぬ瞬間「死有(しう)」
の段階に分かれている。

バルドはこの「中有」の期間にあたり、「中陰」「中蘊」などとも呼ばれる。
この中陰と呼ばれる期間はいわゆる「死後49日間」のこと言い、四十九日の供養を満中陰法要というらしい。仏教では「49日間は来世が決まらない」とされていて、次の転生先に向かうまでの期間として「中陰」という呼び方をしている。

この映画ではその中陰の期間を描いている。映画では「電車で倒れて病院で死亡確認がなされるまでの期間」になっているが、それが49日間だったのかまでは分からない。


物語のプロット。
映画の物語は主人公のシルベリオ・ガマが栄誉ある賞を受けることになり、それを前にメキシコに帰郷するというもの。その昔、一緒に仕事をしていた仲間から離れ、一人で成功を手にしたわけで、彼らに対する思いは微妙なものだ。また現地で開催されたパーティには親類縁者が集うが、彼らとの距離感にもどこかよそよそしい、微妙なものが感じられる。

そこに妻や子どもたちとの意思疎通の難しさ、失った子どもに対する悲しい記憶などが重なり、自己欺瞞と自己憐憫がない交ぜになった過去の記憶がフラッシュバックする。要するにメキシコを捨てたことで失ったもの、忘れていたものが一気に顕在化するわけだが、それとどう折り合いをつけていくかというのがこの映画の主題なのだろう。

映画では妻との間にあったマテオを巡る後悔が吹っ切れ、カミーラとは和解し、ロレンソと交友が結ばれる。だが、描かれている家族との関わりはシルベリオ自身の願望である。リアルな部分では問題は残ったままなのかもしれないのだ。


インポスター症候群。
インポスター症候群とは、自分の能力や実績を認められない状態を指す。仕事やプライベートを問わず成功していても、「これは自分の能力や実力ではなく、運が良かっただけ」「周囲のサポートがあったからにすぎない」と思い込んでしまい、自分の力を信じられない状態に陥っている心理傾向である。


イニャリトゥ的自己批判。
メキシコのトーク番組に出演したシルベリオは、旧友でもあるメキシコ人ジャーナリストのルイスと気さくな会話を交わす。旧交を温めるというのだろう。だがいざ番組が始まると、ルイスはその柔和な態度を硬貨させ矢継ぎ早に侮辱的な質問を浴びせる。
黙りこくるシルベリオ。対面するルイスはお構いなしに続ける。

「君が米国リベラル派に利用されていて、受賞は極右からの攻撃の償いだという声もある。ロサンゼルスのメキシコ・コミュニティを喜ばせるための受賞だと。どう思う?」

「幼少期にプリエト(スペイン語の姓)と呼ばれて嫌だったって? 君の肌の色が想定以上に黒いから。母親と祖母も困惑したとか」

「君の初めての恋人アレハンドラによると16歳で君と駆け落ちしたそうだね。だが君はパンツを脱ぐのを拒否した。神の怒りや地獄が怖いって。純潔を守る気だったのか?」

「偉大な彼も元は色黒の洗車係でしがないラジオのアナウンサーだった。今や名誉学位取得者だ。芸術文化勲章も受賞。大学は出てないがね。上流階級を気取ってる。貧困や社会の除け者の悲惨さを描くことが使命だと考えて」

何も口にできず、CMに入る。
結局番組はドタキャンした旨が、後のシーンによって明示され、先程まで私たちが観ていたシークエンスは彼の脳内で繰り広げられた幾分自虐的なシミュレーションのようなものだと分かる。

また後半、シルベリオの受賞を祝うパーティ会場にてルイスと再開し、口論になる場面がある。

あそこで交わされた言葉が、対外的にはイニャリトゥ監督の抱える問題の本質を捉えている。
あれが実在する批判的なジャーナリストに実際に投げ掛けられた言葉なのか、あるいは監督が脳内で繰り広げた自分と、内省の自己批判を反映したシャドウとの対話なのか、私たちには知る由もないが、芸術家として、またジャーナリストとしての彼の置かれた社会的状況や、批判性、現実社会への抵抗などが見て取れる、非常に興味深い場面だ。


アイデンティティの喪失は母国の歴史に連なる。
本作はメキシコ映画であり、それでいてメキシコの歴史の要素がところどころで説明なしに登場するため、知識のない観客は一層混乱する。私もそのひとりだ。

物語の中で、主人公のシルベリオは『偽りの記録と一握りの真実』という作品を直前に完成させ、それが好評となって、実績が評価されてジャーナリズムの賞を授与されるまでに至っている。この作品はエルナン・コルテスが登場するようで、作中でも街で突然人が次々倒れていき、堆く積まれた死体の山の頂きに鎮座するコルテスが描かれる。

エルナン・コルテスは、アステカ帝国を征服したスペインのコンキスタドール(スペイン語で征服者)であり、植民地支配によってその地域の文化を殲滅した張本人のひとりである。

また、序盤ではチャプルテペク城が登場し、これはスペイン植民地時代に造られた建造物だ。
このチャプルテペク城を守るメキシコ軍に対してアメリカ軍が勝利した戦闘がいきなり映像として展開し始め、その戦いで戦死したニーニョス・エロエスという子どもの英雄たちが可視化される。

さらに序盤と終盤を接続する重要な列車のシーンで登場するアホロートル。日本ではウーパールーパーとして親しまれているこの生き物はメキシコ原産のメキシコサンショウウオという動物であり、現地では絶滅危惧種だそう。
このアホロートルの生息が最初に大きく脅かされるきっかけとなったのも、植民地支配であり、つまりアホロートルも犠牲者なのである。

これに関わるエピソードは映画の終盤で明らかになるが、この魚が幼形成熟する、つまり大人の姿に変わらない点や、アホロートルの語源に水遊びの意味があることなど実は含みの多いシーンだ。

シルベリオはメキシコ人でありながらアメリカでキャリアを高みへと築き上げ、作品内でメキシコの歴史を描いているのだが、そこに「自分は母国の歴史をエンターテインメントとして消費し、アメリカ人を都合よく喜ばせているだけではないか」という劣等感を抱えているのが、この映画の中でこれでもかと映し出されている。

また、息子のロレンソにメヒカーノなのかアメリカンなのかと批判される場面があるが、これがたっぷり時間を置いて、物語後半の空港での出来事によって回収されるのもイニャリトゥ監督らしい。

本作は単なる個人のスランプを描くというよりは、こうした国際的に活躍するクリエイターの人種的な葛藤にも焦点を当てており、イニャリトゥ監督の苦悩の根深さを物語っている。


生まれたくない赤ん坊。
序盤の妻のルシアが出産している病院で、なぜか赤ん坊が産まれるも、「出たくないと言ってます」と医者が告げ、その赤ん坊をまたルシアの股からお腹の中に粛々と戻すという、アクロバットな描写に仰天する。
ベッドで夜の営みを行う場面でもひょっこりと顔を出し、シルベリオを責め苛む。そして物語後半では非常に小さな赤ん坊をまるで生まれて間もない海亀の子が海に進むように砂浜に離して波に消えていくシーンが差し挟まれる。

一見すると意味不明だが、実際はマテオという子が産まれて30時間で亡くなっていることが判明し、夫婦の中には心の傷として残っていることの表れを、あまりにも特殊なアプローチで可視化したシーンとなっている。
砂浜で海に返しているのは実際のところは遺灰である。

Los Angeles Timesの記事によると、イニャリトゥ監督も90年代に同じように子どもを失っていて、公には詳しく語っていないようだが、後の作品『21グラム』や『バベル』に織り込まれたエピソードに繋がっているとのこと。


亡き父との再開。
私が最も素晴らしいと思ったのは、シルベリオが受賞のために帰った故郷でのダンスホールの場面だ。人々が踊り狂い、熱気渦巻く会場、デヴィッド・ボウイの往年の名曲『Let's Dance』がアカペラで流されるシーンの多幸感の凄まじさから、シルベリオがほの暗いトイレに入って行く。と、そこに死んだはずの父親が現れる。動と静、熱気と侘しさ、受賞の高揚と過去への悔恨がないまぜになって、胸を締め付けられる。

トイレで父と再会して対話するシーンも象徴的だ。ここではシルベリオは子どもサイズの身体に戻りつつ、頭だけが大人のままという、なんとも奇妙なバランスになっており、彼の矛盾した心境が窺える。先述したアホロートルの幼形成熟が思い出される。老人が死の間際に幼児退行する現象が実際にあるが、父の面影を前に、心だけが幼児化するこの描写にはそうしたアイロニーが感じられて切ない。


マジックリアリズムで描かれた映画的錯乱。
まるで錯乱した様子を次々にと映像化してゆく本作だが、さすがはイニャリトゥ監督、その錯乱すらもクリエイティブで芸術的に昇華されている点に感心するが、現実ではシルベリオは脳卒中で倒れており、これはまさしく脳内の出来事なのである。

繰り返しになるが、ここで先述した本作のタイトルが鍵になってくる。
バルド、仏教において、前世の死の瞬間から次の世に生を受ける刹那までの時期における幽体状態のこを指す、中陰という状態、つまり、シルベリオはそのバルドのステージにあるということだ。

彼が電車の中で抱えていた水袋にはアホロートルが3匹入っていた。飛行機内でロレンソと交わした会話が思い出される。

ラストではシルベリオは亡き家族を目にしながら、ひとり砂漠荒れ地を彷徨っている。家族の呼びかけを背にして黙々と歩いてしまっているシルベリオだが、あれはあのまま死を意味するのか、それとも生き返るのか。少なくとも『バルド』というタイトルから伺い知れるように、シルベリオには次の生が待っているのかもしれない。それはクリエイティブな意味での「次の生」であり、シルベリオはこの苦難を乗り越えてまた新しい何かを生み出せるようになる……。と観客である私たちは信じたいところだ。


アカデミー賞撮影賞ノミネートのダリウス・コンジを撮影監督に迎え、65mmフィルムで撮影された映像は、現実味がありながら、幻想的でどこか虚構にも見え、〈偽り〉と〈真実〉の区別がつかないほどに美しい。ぜひ劇場で観たかった。
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