朱音

呪詛の朱音のネタバレレビュー・内容・結末

呪詛(2022年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

東西様々なホラー演出の手法を巧みにクロスオーバーさせ、呪いの深淵から最深部へと観るものを誘う、そして観客をも巻き込む掟破りの圧巻のトリックによって、"最悪"の映画体験を齎す。
"ジャンル映画"で出来ること、その全てをやり切った、まさに渾身の一作だと思う。


2022年7月からNetflixにて配信がスタートした本作、『呪詛』は「台湾史上最も怖い」という触れ込みがSNS上に飛び交っているホラー映画だ。近年の台湾ではホラー作品が盛んに作られており、とりわけギデンズ・コー監督の『怪怪怪怪物!』(2017年)、ジョン・スー監督の『返校 言葉が消えた日』(2019年)、ロブ・ジャバズ監督の『哭悲/The Sadness』(2021年)は日本でも話題を呼んだ。
ひとたびヒット作が生まれると、映画ファンは更なる恐怖のエンターテインメントを望み、若いフィルムメーカーたちが競い合うようにして、新たな恐怖表現に挑むようになってゆく。かつてのJホラーがそうであったように、台湾で勢いづいているホラーのマーケットは、今まさしく好循環の真っ只中にあるようだ。


そんな中にあって本作、『呪詛』が何故これだけ巷で騒がれる作品になり得たのか、本作が作り出した恐怖表現について書き記したいと思う。

本作の雰囲気が、無数のホラー作品のなかでも際立って異様なのは、主人公の女性がYouTuberのように、観客に向かって語りかけてくる、その冒頭部分からも十分に予想できる。彼女は観客である私たちに"意志の力"の凄さを強調し、「簡単な実験をしよう」と提案してくる。

ここで突然映し出されるのが、稼働している観覧車を表現した、イラストによるアニメーションだ。それを見せながら女性は、「観覧車が右回りになるように念じて」、「次は左回り」と指示をしてくる。実際に言う通り念じると、たしかに自分の願う方向に観覧車を自由自在に回せているように見えるのである。
こうした錯視を促す動画はネット上でも度々お目に掛かることだろう。片脚を上げた女性のシルエットがバレエのようにクルクルと回転するスピニング・ダンサーというシルエット錯視が有名だ。

しかし冒頭の女性は、"意志の力"には、世界を変えることさえできると説明する。ここで嫌な予感がするのは、この"実験"と称する"観客参加型"の試みは、悪質な宗教に勧誘されている状況と近いように感じられるからである。カルト宗教が信者を獲得する常套手段として、奇術めいた"奇跡"を体験させたり、真実に嘘を混ぜた詭弁で、真理めいたことを語るというものがある。本作の冒頭部からは、それと同様の欺瞞があることが直感的に伝わってくるのだ。

興味深い導入であるが、冒頭の動画はただの錯視だ。その動きを変化させるのは脳の視覚的な錯覚を巧みにコントロールさせる動画の"つくり"であって、決して"意志の力"などではない。だが、そもそも論として、ホラー映画とは、フィクションとは、作り手の仕掛けた罠に自ら飛び込み、その非日常が与えてくれるスパイスを楽しむという、作り手と観客の、ある種の共犯関係によって成立するものである。受動的にせよ、能動的にせよ、その作品を存分に堪能したいという観客の欲求が、先に立っている。ホラー映画や怪談など、超自然的な要素と日常的な描写が絡んだ題材であれば、なおさらなのではないか。そして本作の作り手は、恐らくそのメカニズムを知っているからこそ、それを意識した試みを用意出来ているのではないだろうか。


主人公はある宗教施設で禁忌を破り、その呪いを受けることとなったリー・ルオナン。それから6年の月日が経ち、恐ろしい呪いが自分の娘に降りかかったと知った彼女が娘を守ろうとする姿が描かれていく。
本作は2000年代に台湾南部のとある町で起きた、あるカルト教団の家族にまつわる実話から着想を得ているという。
ケヴィン・コー監督はこう語る。

「信仰に対する敬意、特に宗教上の禁忌や深い謎に包まれた宗教には、恐怖心がいくらか混ざっているものです。私は怖い物語が大好きですが、こうした題材に手を出せずにいました。この畏れの感情を、『呪詛』で最大限に生かしたいと思ったのです。」

その実在の事件に、掲示板やYouTube、チェーンメールなどのインターネット文化を織り交ぜ、「現実世界の結果は、見るものの意思によって形作ることができる」というテーマが掲げられた。

近年ではナ・ホンジン監督の『哭声/コクソン』(2016年)やアリ・アスター監督の『ミッドサマー』(2019年)、日本では清水崇監督の「恐怖の村」シリーズなど、宗教的な恐怖や土着的な因習にまつわる恐怖を描く、エキゾチック・ホラーが大きな話題を呼んでいる。本作ではそこにエドゥアルド・サンチェス、 ダニエル・マイリック監督による『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999年)や、マット・リーヴス監督の『クローバーフィールド/HAKAISHA』(2008年)、そして『パラノーマル・アクティビティ』シリーズなどで用いられた"ファウンドフッテージ"という、発見されたドキュメンタリー映像を紹介するという設定のフィクション作品、いわゆるモキュメンタリー映画の手法が取り入れられ、ますます"観てはいけないものを観てしまう"怖さに苛まれる仕掛けが施されている。

ホラー映画において最も重要なのは、映像や音を効果的に駆使した恐怖の演出であるのは言うまでもない。静寂からの突然の大きな音で驚かす、いわゆるジャンプスケア演出といった、あまり品の宜しくない手法から、子供だけがその存在を認知しているという定番の演出、そして、見せるべきもの、見せないもの、の採択を巧みに計算した引き算の美学、観るものの違和感を誘引して不気味感を構築する映像演出、多岐に渡る様々な手法を用いてホラー映画は作られているわけだが、本作はそれらクリシェの用い方、そのセンスに長けている。

その中でもとりわけ、際立つのが人間の驕った感情や、愚かな行動が引き起こす、"嫌味"の確立だ。

清水崇監督のオリジナル・ビデオ作品『呪怨』(2000年)に顕れているように、作品の持つ恐怖を演出する上で重要なのは、直接的な怪異の描写自体ではない。
例えば虐待や家庭内暴力があったことを"なんとなく"想起させる、家の散らかりようや子供の玩具が壊れて散乱した様など、さりげなく、チラリと見せられるそうした生理的嫌悪感、負のエッセンスの堆積がこの場所に、ある種の"穢れ"や、"澱み"を映し出すのだ。そうしてそういう穢れた場所に、悪いモノ、邪悪なるモノが住み憑くという、固着観念を呼び起こさせ、観るものの中で次第に増幅されてゆく心理を巧みに利用することこそが、優れたホラーの演出というものである。
これはJホラーにおける"小中理論"にも通じることだが、本質は説明し過ぎない、さり気なさの堆積なのだ。
本作においていえば、6年前のルナオンらが起こした軽率かつ不埒な行動にそれがありあり顕れているし、さらにいえば、あの場所においてカメラに映し出された様々な事物、それ自体が多大な生理的嫌悪感と畏れを催させるものだ。



『呪詛』が破った映画界のタブー。
「効果的なホラーシーンをつないで視聴者を怖がらせることは簡単です。しかし良質なホラー映画は、トリックがすべてではありません。核となるべきは、そこにある人間の性なのです。つまりは視聴者が登場人物に感情移入できるかどうかなのです。」

と、コー監督は語る。これは物語やキャラクターに感情移入を促す効果を齎している以上に、最後に用いられるトリックを真に発揮させる為に必須だった要素だ。

不気味な物語とともに表現されるのが、ルオナンと娘との人間ドラマである。母と子の本音が絡んだリアリティのある結びつきは、それが通り一遍のものでないからこそ、観客により強い感情移入を促しているといえよう。しかし本作は、その善意を利用して、娘の呪いを払うという儀式に観客自身も参加させようと迫ってくるのである。

ラスト直前には、冒頭に仕掛けた伏線を回収する形でカメラ目線のルオナンが、ある"告白"をする。

『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』がそうであったように、P.O.V.ホラーにおける主人公のカメラ目線の告白は、多くの場合、自らの最期を覚悟した"遺言"の意味合いが強い。ところが本作のそれは、「第4の壁」、つまり俳優と観客を分けるように舞台と客席を隔てる架空の壁であり、プロセニアム・アーチと呼ばれる観客席と舞台空間とを隔てる枠は物理的に開放されているものの、あたかもそこに壁があるかのように、役者たちは演技の最中、舞台空間の向こうに観客がいることを意識しないか意識していないように見せかける要素だ。
本作における、その第4の壁は、すなわち映画という虚構と、それを鑑賞している私たちの現実との境界を破る行為として明確に演出されているわけだ。

ここでさらに思い出すのが、インターネット掲示板の書き込みが広めた都市伝説である。俗にいう「ひとりかくれんぼ」や「エレベーターで異世界に行く方法」など、その話を知った者が参加できる、儀式めいた内容のものがある。それらの都市伝説を実践したことがあるかどうかはさておき、そうした話自体、ネットの書き込みに寄らずとも、映画やオカルト番組、フリーゲームのモチーフなどにメディア・ミックスされた作品を通じて、知っている者は決して少なくないはずだ。

これが怖いのは、都市伝説の大元となった、その最初の投稿、最初の発信、それが迷信であれ、創作であれ、必ずしも"善意"の基に発信され、拡散されたものであるかどうかが結局のところ不明であるということであり、ここで語られる物語には、プロの作る商業作品と観客という関係性が担保出来ていないというところだ。つまり、そこでは書き手が悪意を持って読み手に不利益を与えようとしている可能性すらあるのだ。

"見たら呪われる写真"と称する画像を見せておいて、「助かるためには、このような儀式をすることが必要」と指示してくるものもあるが、じつはその儀式自体が呪いをかけるものだったと、後から知らされる書き込みも存在する。

その意味において、本作のラストで明らかになる告白の"核心"部分は、どちらかといえばネットの怪しい書き込みを読んでいる感覚に近く、娯楽作と観客の間にある、一種の信頼感を破ってしまっているところがあるといえる。

そんな趣向すらフィクションとして楽しめればよいのだが、それでも本作は、洗脳の入り口となるような趣向を用意していることで、観客によっては精神的なダメージを被る場合があるかもしれない。そういう意味でもこの『呪詛』は問題作なのだ。


こうした種々様々なホラー映画の手法を研鑽し、丁寧に積み重ねてゆく堅実な構築スタイルと、映画におけるタブー破りをものともしない野心的な創意、それらの合わせ技によって本作は、ジャンル映画としては頭ひとつ抜きん出た力作となったわけだ。話題になるのも無理はない。

ちなみに、本作で呪いの源泉ともなっている、邪神“大黒仏母”は、大黒天や鬼子母神などの既存の信仰対象を、本作のクリエイターが混ぜ合わせた、架空の存在に過ぎない。だが映画のムードはやり過ぎなくらい、よく出来ている。本作に呪いの効果があるはずもないのは言うまでもないが、それに足る信憑性をモノにした作品なのは確かだ。

Netflixという野心をもった映画作家たちの駆け込み寺のプラットフォームがある限り、このような作品に出会えることも稀ではないはずだ。

コー監督はこう語る。

「ホラーというジャンルが国を超えて受け入れられるのは、死や不可解な力に対する恐怖。そして『呪詛』の登場人物や母子の絆のような人間関係への共感といったものがそこにあるからでしょう。自分の作品が世界を駆け巡り、ホラーファンが一人残らず夜眠れなくなる。そんな日をずっと夢見てきました。」
朱音

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