朱音

2012の朱音のネタバレレビュー・内容・結末

2012(2009年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

4K Ultra HDに惹かれて観てしまった。
『インデペンデンス・デイ』や『デイ・アフター・トゥモロー』など、超ビッグ・バジェットのディザスタームービーを作り続けてきたローランド・エメリッヒ監督の総決算。まさにハリウッドの"破壊王"に相応しい地球規模での大破壊スペクタクルになっている。

『インデペンデンス・デイ』も『デイ・アフター・トゥモロー』にも、ご都合主義的な展開や要素であったり、資本主義、軍事主義的な社会情勢の裏の事情などがチラと垣間見える不気味なヒューマニティを描いていたが、本作はそれとは一線を画す。
美談やお涙頂戴では、到底覆いきれない人間の傲慢さや、社会における人種のカーストの坩堝、命の選択における不謹慎なブラックユーモアといったものが、パニックに見舞われた人々の阿鼻叫喚を下敷きにこれでもかとばかりに積み重ねられているのだ。

ある意味、エメリッヒ監督の最も伝えたい本音の部分や人間観が、脚本のアラ(?)という形で所々に見え隠れしており、逆説的な読み方をすると本作は面白い。
ただ、まがりなりにも一本筋の通っていた前述の作品らと比べると、本作のストーリーラインはもはやカルト的なまでにトンデモ寄りで、その分明瞭なカタルシスが得にくいことは確かだ。


2012年人類滅亡説。
バカげたスケールのストーリーを開陳し、独自の人間賛歌を謳いあげるエメリッヒ監督は、マヤの終末説を取り上げた。

これはマヤ文明で用いられていた暦の1つ長期暦が、2012年12月21日から12月23日ごろに1つの区切りを迎えるとされることから連想された説である。
21世紀初頭のオカルト雑誌や予言関連書などで、1999年のノストラダムスの大予言に続く終末論として採り上げられてきたが、懐疑的な論者はマヤ暦の周期性は人類滅亡を想定したものではないと反論をしている。学術的にもマヤ人の宗教観や未来観を知る上で意味があるとしても、それが現実に対応するものとは考えられていない。

結果として2012年に人類が滅亡することはなく、この説は従来の全ての「滅亡予言」同様に的中しなかった。(Wikipedia参照)

また他の事象との関連として、

この年の5月20日(日本時間では5月21日)に最大規模と呼ばれる金環食が起こり、この時太陽・地球・月、さらにこれに加えプレアデス星団までが正確に地球と一直線に並ぶという天文学的に稀な現象が発生すると主張する者もおり、その日が12月22日の滅亡に向かう契機と解釈するものもいた。(Wikipedia参照)

当時、アメリカを中心に大流行していたテーマで、この題材を作品に落とし込んだものは多い。

キリスト教文化圏に限らず、終末説は世界中のあらゆる地域で見られ、あたかも人類の深層心理に刻みつけられた集合的無意識のようだ。
ノストラダムス予言の記憶が遠の昔に消え去った後も、新しい終末説、人類の終わりに熱中する人々は多い。
NASAには毎日「滅亡するのか?」といった内容の問い合わせが殺到し、終末が怖いからと自殺する人すらいるらしい。しかし、こういった話は今に始まったことじゃない。

いずれにしろ思うのは、美しい映画はしっかりとした科学考証から生まれるものだ、という点だ。
本作がそういったセオリーに則った作品でないのは火を見るより明らかだ。


ローランド・エメリッヒという作家性。
この監督の作風は単純明快であり、実は複雑だ。ドラマティック、ロマンティック、そうした分かりやすいヒューマニティを中心に据えながら、制作を取り巻く種々様々な事情により、それが捻じ曲げられているという点だ。それがトンデモ要素として、彼の作品に大きな痼を残す。

マイケル・ベイ監督らと並んで、職業監督、大作請負人としての立場が、彼から真っ当な作家性を奪ってしまっているのだ。いや、『ペイン&ゲイン 史上最低の一攫千金』(2013年)のような作品を作れているだけ、ベイ監督の方が遥かに恵まれている。

ドラマティック、ロマンティック、そしてトンデモ、その3つの要素を本作はこれまで以上に完璧に満たす。地上が景気よくぶち壊れてゆく中、猛烈な行動力と家族への愛、そして強力な運に恵まれた主人公たちだけが、圧倒的不利な状況を切り開いてゆく。
今回の全地球規模の大災害の前には、かの作品群で大活躍してきた米国軍ですら無力だ。それに変わって強大な国力を見せるのが、中国だ。

作品が公開された2012年当時ならいざしれず、2023年の現在となっては、この設定は限りなくリアルだ。人類を救う数隻の巨大な方舟建造、これを実現出来る技術力と経済力、そして人材酷使力があり、他の国民や世界中のマスコミを完全にシャットアウト出来る国など他にはないだろう。

これまでのパニック映画、ディザスタームービーは、人類生存の為のプロジェクトを美談扱いしてきたが、この『2012』は違う。
むしろその現実を描いているといってもいい。美談の裏には酷使されてきた人達の犠牲があり、命よりも美術品を優先し、貧民の若者よりも金持ちの老人やペットを選ぶ、能力よりも権力がものをいう、そういう現実をこの映画は余すことなく描いている。

余談だが、そもそも論として、種の保存だけなら動物の番を一頭ずつ確保するより、遺伝情報を積めば良いだけの話なのである。

事程左様に、この映画は一見能天気なトンデモパニックものに見えて、実は皮肉のスパイスがたっぷり効いた社会派的な一面を持っている。


ただ、ひとついえるのは、エメリッヒ監督はどれだけ多くのキャラクターを追加しようとも、彼ら一人ひとりにちゃんとスポットを当て、見せ場を見せ場として機能させる技量は持ち合わせている。
そう、実はこの監督、観客の注意を誘導する描写力の演出には優れているのだ。
どのキャラクターにも、良きにしろ悪しきにしろ味があり、親しみやすい。キャスティングや演技演出のセンスもあるのだろうと思う。
問題なのはむしろ脚本の方だろう。今まで活躍してきたキャラクターが用済みになった途端に呆気なく退場する様は異様とも思える。


本作をアトラクションムービーとしてみるならば、中盤の大破壊描写や、やり過ぎなくらいのピンチ展開からの脱出劇、各キャラクターの活躍など、なかなかの満足度が得られる。だが、終盤になると尻すぼみもいいところで、船のハッチが閉まらないだのなんだの、割りとどうでもいいことに時間が割かれてしまったのは残念だ。このような作品に求めるのはひたすらに増大し続ける事態や描写のクレッシェンドであり、ミニマルな問題との格闘ではないはずだ。本作はそうしたスケールのコントロールを見誤っている点において、中途半端な印象を受ける。
2時間半を費やす映画ではないのは明白だ。
朱音

朱音