朱音

パワー・オブ・ザ・ドッグの朱音のネタバレレビュー・内容・結末

パワー・オブ・ザ・ドッグ(2021年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

西部劇の小説で知られるトーマス・サヴェージが1967年に執筆した同名原作を映画化した、1920年代のモンタナ州が舞台の本作、時代はまさに"ローリング・トゥエンティーズ"の真っ盛り。

ローリング・トゥエンティーズとは、アメリカで第1次大戦後の経済的繁栄のうえに消費的な都市文化が開花した1920年代を呼ぶ言葉。ここでは、同時代の世界的動向を概観する。
アメリカでは、1930年代に20年代を振り返って、ローリングという形容詞をつけるようになった。この語には「ほえる」「騒々しい」「活発な」といった意味があり、また1910年代から「ロア / roar」の語は"社会に対して抗議する"という意味にも使われるようになった。

なお、この時期のアメリカの世相についてはジャズ・エイジについても触れておきたいと思う。

第1次世界大戦終結から1929年の大恐慌にいたる、戦後の繁栄のなかにあったアメリカの代表的一面を指す言葉で、ジャズはその当時から白人社会にも流行し出した音楽の一形式だが、ほかにセックス、そしてダンスの意味ももち、神経の一般的興奮状態を暗示している。繁栄と戦後の解放感からとくに若い世代が、前代までの保守的な道徳律に反抗して一般的に享楽的になり風俗やマナーが急激に変わった時代である。

またこの時代、女性の権利獲得も進んだ。スコット・フィッツジェラルドの描く煌びやかで空疎な世界もこの時代の話である。

つまり、この映画において描かれる舞台はひとつの時代の終わりと始まりを伝える時代設定になっているのだ。まさにジェーン・カンピオン流の『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』(コーマック・マッカーシー著、2007年発表)といえるのではなかろうか。


その同じ時代に、本作のフィルの農場では、荒くれ男のカウボーイたちが馬に跨って牛を追い、ホモソーシャルな王国を築き上げていた。まるで19世紀の西部開拓時代の荒々しさそのままに。
もはやそこは開拓フロンティアでもないし、女たちも大勢移住してきていたはずだが、フィルは"男の世界"に固執している。それは彼のブロンコ・ヘンリーへの熱い崇拝と深く結びついており、彼にとっての価値観の全てだ。「男の中の男」とフィルが賛美するブロンコ・ヘンリー、フィルの恩人であり、フィルの神である。

フィルのブロンコ崇拝から、ふっと連想したのがアンドリュー・ドミニク監督の『ジェシー・ジェームズの暗殺』(2007年)だ。
『ジェシー・ジェームズの暗殺』で描かれた主人公のジェシー・ジェームズへの崇拝は、限りなくホモセクシュアルな感情に近いもので、それはやがて殺意と結びついてゆく。本作のミソジニストでホモフォビアのフィルのブロンコ崇拝も、『ジェシー・ジェームズの暗殺』の主人公のジェシーへの想いに重なるものがある。
つまり、崇拝とホモセクシュアルな愛が結びついているという点だ。

フィルのような、一見激しいホモフォビアに見える男性が実はホモセクシュアルであるということは、ホモセクシュアルに対する激しい偏見があった時代にはしばしばあったことのようだ。とても屈折した二面性だが、まずは彼らがそうならざるをえなかった時代背景に目を向けるべきだろう。

ジェーン・カンピオン監督は非常に冷徹かつ、詩的な官能性を発揮した作劇によって、フィルの複雑な二面性を捉える。この、いわゆるマチスモ、およびトキシック・マスキュリニティに新たな入射角を齎したという意味において本作は革新的だ。


フィルのブロンコへの想いは、彼がブロンコの遺品の鞍を撫でる時の熱を帯びた手つきや、彼が森の隠れ家に隠し持っているブロンコのヌード写真に仄めかされているし、やがて、誰も見ていない場所でフィルがブロンコの遺品をズボンの中から取り出して布を熱く抱擁するという衝撃的なシーンによって決定的なものになる。
そんなフィルが人一倍中性的なピーターを「お嬢ちゃん」とからかい、イジメる心理には一筋縄ではいかないものが交錯している。一見フィルはピーターのような(彼曰く)女々しく、ナヨナヨした男を毛嫌いしているように見えるのだが、その反面、ピーターをとても意識していることもわかる。

一方、ピーターの母親でフィルにとっては義妹にあたるローズに対するイジメは、完全にミソジニーのそれであり、裏も表もない。


トキシック・マスキュリティについて補足すると、日本語では「有害な男らしさ」や「男らしさの呪縛」とされている「トキシック・マスキュリニティ」とは、"弱さを見せてはいけない"、"強くいなければいけない"といった、社会が男性に対して"男らしさ"を設定し、その"らしさ"に沿わない行動や思想を罵ったり、バカにしたりして排斥することや、またはその概念のことを示す。

フィルという複雑なパーソナリティと、こうした社会的問題性とを併せ持つキャラクターを演じたベネディクト・カンバーバッチは英Sky Newsにてこう語っている。

「男性たちの振る舞いを正していく必要がある。そのエンジンを覆う蓋を少しだけ上げる必要があるんだ。」

「現状や家父長制に疑問を持ち、批判し、ついに問題点を指摘している世界では、それはさらに重要になってくる。」

ベネディクトはさらに、こうした問題があがった時に頻繁に持ち出される、"すべての男性が悪いわけではない"という「Not All Men(ノット・オール・メン)」という言葉にも言及して、

「『すべての男性たちが悪いわけじゃない』みたいな子供じみた弁解のような反発や否定がくることになるけど、そうじゃない。僕らはただ黙って、耳を傾ける必要がある。」

と、これはあらゆる男性たちが考えなければならない問題だと続けた。


大学で古典を学んだインテリのフィルが一体何故現代文明を拒むかのような野生児的な暮らしをしているのか、その辺の事情は一切説明されないものの、彼がブロンコがいた同じ世界に生き続けることを望んでいるのは間違いのないように見える。
彼にとって人生の真実は唯一そこにあった。当時のホモセクシュアルな男性にとって数少ない生きやすい世界、その1つの選択肢がカウボーイという世界だったということもあるのかもしれない。


本作を独自のサスペンスたらしめているのが、女性のように可憐な容姿のピーターの残酷なたくらみ。そして、彼のセクシュアリティの謎だ。
農場の男たちはピーターを見た目だけでゲイだと思っている。だが、本当はどうなのか。

母親のために造花を作ったりと繊細な面を覗かせたかと思えば、「解剖の練習」と称して可愛がっていたウサギを殺す。こういう背筋がゾクリとするような冷酷さもピーターの一面だ。
母親を「ローズ」と呼び、まるで彼女の恋人のようにふるまうのも異様だ。それも、父亡き後彼が自身に課した役割なのか、それとも母親こそが彼の最愛の恋人なのか。

ともあれ、フィルの隠れ家でブロンコのヌード写真を見つけ、フィルのセクシュアリティに気づいた時から、ピーターのフィルへの反撃が始まる。
彼は女性的に見られる自分の容姿を逆手に取り、わざと女性らしさが際立つ洗いざらしていないジーンズをはいてフィルの気を引く。案の定、フィルは声をかけてくる。もっとも、それには、ピーターを自分の側に取り込んでローズを苛立たせるというもくろみもあったかもしれないが、いずれにしろ2人の仲は急速に接近することになる。


平原にあるフィルたちの家から見える単調な景色の中で、唯一ランドマークと言えるのが近くにある低い丘陵地帯の起伏。そこに太陽が射して山襞に複雑な陰影を刻み込むのだが、フィルはピーターに、それが何に見えるかと尋ねる。いってみればロールシャッハ・テストのようなもので、先の展開にて、フィルと行動を共にする荒くれたちにはそれが何であるのか答える事が出来なかった件がある。
だがピーターは即座に「吠える犬」が見えると答える。奇しくもブロンコと同じだったことにフィルは驚き、大いに喜ぶ。恐らく彼はこの瞬間、ピーターと自分との間の運命の絆を確信したことだろう。これを転機として、フィルは完全にピーターの虜となってしまう。

ただ、「吠える犬」に関していえば、これ自体はピーターの謀とは無関係だ。彼らはひょっとしたら潜在的な部分で繋がっていたのかもしれない。
本作の物語が真に恐ろしいのはまさにこの部分で、実はこのフィルとピーターの関係は、それこそ父と息子のイニシエーションのプロセスとしても機能しているという点だ。
ピーターはたしかにフィルを謀殺したが、彼から得たものは少なくないはずだ。そしてピーターはあのロープを生涯手放す事はないだろう。


ただし、ピーターが「この家に来た時からそこに吠える犬が見えていた」と言っているように、ピーターにとってのその"犬"は自分たち母子をおびやかす脅威を表している。
ラストシーンでピーターが諳んじる、旧約聖書の詩篇22の20、

「私の魂を劔から救い、犬の力から助け出してください。」

という一節を読む場面が、ピーターにとっての"犬"の意味を裏付けている。

一方、ブロンコにとっての犬とは何だったのか。
劇中での説明はないが、少なくともピーターと同じ「フィルの脅威」ではないだろう。
ブロンコとピーターは山肌に同じく"犬"を見たものの、彼ら2人にとっての"犬"は同じものではなかったということ。そこを読み切れなかったところにフィルの悲劇があるのだ。


フィルの殺害方法と、インディアンの手袋。
ピーターはどうやってフィルを殺したか、彼は孤独なフィルに「自分と同類(つまりホモセクシュアル)」だと思わせることで心を許させ、「縄が編み上がったらおまえにやろう」というフィルの申し出を受ける。
カウボーイの縄は革で編むもの。それを知っていたピーターは、ひそかに炭疽病で死んだ牛の皮を入手してなめし、フィルに縄編みに使わせて感染させるという殺害方法を思い付くわけだ。ピーターが父親の遺した医学書を使って方法論を考えるシーンは、あたかも父が彼に遺した言葉「愛する人の行く手にある障害物を取り除け」を父親の助けを借りて実行しているように見える。

ただ、ここで問題が生じる。フィルを炭疽病に感染させるには、「フィルの手に怪我をさせておくこと」「フィルの手持ちの皮を全て処分し、ピータが用意した炭疽病の牛の皮を使わせること」という下準備が必要なのだが、劇中ではどちらもあたかも偶然それが起きたように描写されていて、(その曖昧さ、そっけなさが本作の独特の味わいでもあるのだが)無論、ピーターが仕組んでそれを引き起こさせたこと。実際、彼が母親に、「そんなことをしないで済むようにするから」と、犯行を仄めかす場面がしっかりと描かれている。

たしかに、フィルの手持ちの皮を全部インディアンに売り渡したのはローズだ。
ここがどうしても「ピーターの計画的犯行」という見方を塞ぐネックになってしまうのだが、唯一、この矛盾を回避できる推察は、母子は共謀関係だったという見方だ。

ローズは単純にフィルに嫌がらせをしたかったのかもしれないし、フィルと違ってインディアンに必要な物資を提供したかったのかもしれない、あの場面の彼女の行動についてはいろんな見方があるものの、ストーリーの流れから浮かび上がってくるのは母子の共謀であるということ一択なのだ。
皮を売った時のローズの異様なまでの挙動不審ぶりは、その可能性を暗示しているようにも見える。

この辺の見せ方は非常に独特、かつ、事実がはっきりと見えないだけに不穏さを掻き立てられる。
劇伴を担当したジョニー・グリーンウッド(Radioheadのギタリストとしても有名)による不協和音を多用した楽曲との親和性も高く、印象に残るシークエンスだ。

そして、インディアンが皮の代金の代わりにローズに革手袋を手渡すシーンには、皮肉な寓意が込められている。もし縄を編む際にフィルが手袋をしていたら、彼は感染を避けられていた。つまり"手袋"は、フィルが助かる手立てのメタファーなのだ。しかし、フィルはインディアンを毛嫌いして革を売るくらいなら焼いたほうがマシという発想だったからこそ、彼らとの間にそのような接点はなく、"手袋"はローズの手に渡った。そして手袋なしにピーターの差し出した革で縄を編んだフィルは命を落とすことになったわけだ。

フィルとインディアンの関係を考えさせる巧みなモチーフであり、細部にまで原作のエッセンスが丁寧に注ぎ込まれている。


ピーターのセクシャリティ。
かくしてフィルはピーターの計画通りに炭疽病に感染し、激しく苦しんだ末に死亡する。

しかしながら、果たしてピーターはゲイを装っていただけなのだろうか、あるいは本当にゲイだったのか。
何故この問題が重要なのかというと、もしピーターがゲイではなくゲイを装ってフィルを騙したのだとしたら、マジョリティがマイノリティの弱みに付け込んで彼を殺すという21世紀のポリティカル・コレクトネス時代にとっては到底、受け入れがたい話になるからだ。

私個人はポリコレを映画に持ち込むことは好きではない。だが、いくらなんでも態々1960年代の小説を21世紀に持ち出してきた意味として、これでは陳腐な映画としか言いようがない。

しかし、原作小説の訳者あとがきによると、これは原作者サヴェージの半自伝的な要素を含む小説であること、そして、彼はホモセクシュアルであること、それを妻にも打ち明けていた事などを知り、腑に落ちた。つまり、劇中ではっきりと明示はされてはいないものの、ピーターもおそらくゲイだったと理解していいのではないかということだ。

ピーターがゲイだとすれば、彼はセクシュアリティを偽ってフィルを騙したわけではなくなるという意味で、セクシュアリティから解き放たれた話として眺めることが出来る。
つまり、交わる道が少しでも違っていたならば、フィルとピーターはもしかしたら友情を築くことができたかもしれないし、それによってお互いに変化出来たのかもしれないが、ピーターは母親の幸福のために自分と自分の同類の友人を犠牲にした、という話だ。

ただ、どちらにしても本作は倫理的調和を目指した作品ではない。むしろ予定調和をつき崩してゆくようなところがある。


私が本作を鑑賞し終えて真っ先に頭をよぎったのが、大島渚監督の遺作となった『御法度』(1999年)だ。
男と男の愛の物語ではしばしば愛と殺意が表裏一体に描かれるもの。先に挙げた『ジェシー・ジェームズの暗殺』はまさにそれだし、『御法度』もそうだ。本作も、フィルがそれを望んでいたわけではないにしろ、結果として彼は愛する者に殺された。本作に予定調和的な部分はどこにもないと思っていたが、もしかしたら唯一ここが、腑に落ちる着地点かもしれない。
朱音

朱音