朱音

マイ・ブロークン・マリコの朱音のネタバレレビュー・内容・結末

マイ・ブロークン・マリコ(2022年製作の映画)
3.6

このレビューはネタバレを含みます

原作は平庫ワカの同名作、2019年にオンライン・コミックCOMIC BRIDGEにて連載された全4話の漫画だ。連載が始まるやいなやSNSなどで話題になり、輝け!ブロスコミックアワード2020・大賞や、2021年・文化庁メディア芸術祭マンガ部門新人賞を受賞。
この漫画がすごい!2021年オンナ編・第4位にランクインするなど、ほぼ無名に近い新人作家の初連載作品とは思えない程の快挙を成し遂げてきた。

本作の監督・共同脚本を務めたタナダユキは、

「原作を読み終えた瞬間、何かに突き動かされるように、後先も考えず映画化に向けて動き出しました。」

と語っている。かくして単行本1巻で完結する新人作家のデビュー作の実写化企画は、こうしたタナダ監督の熱量の籠ったアプローチにより実現したのだ。


漫画という媒体、映画という媒体。
漫画を映画化するにあたって難しいのは、漫画ではモノローグとして十分に説明されている心の動きを、映像でどう見せるかである。特に感情の昂りを表現するコマ割りや、絵柄のデフォルメなどは漫画独自の表現であり、最も得意とするところだが、映画という、レンズを通した映像でそのホットなニュアンスを再現するのはことのほか難しい。
本作がとったアプローチが、原作にあった台詞やモノローグをそのまま言葉にするという、些か安易に感じられる手法だったのは否めない。
実際、声に出されるとその台詞は浮いてしまうし、キャラクターの言動に、観ているこちらが気恥しさを覚えてしまう。フィクショナル・ラインが多分に下がってしまうのは、この生の実在感を問う物語においてはノイズにも感じられた。

だが映画であることのアドバンテージを活かした作品であることも事実だ。生身の人間がリアルな空間を動くことで醸し出される生々しさがここにはある。街の中華屋、散らかったオフィス、安アパートの生活感丸出しの部屋、当たり前のことだが物語の中という世界で人が息づいている、その事をしっかりと感じさせてくれる作品が、実はここ最近の邦画には少ない。

また先述した事と相反するようだが、人の発した声の響きというのは頭の中に残存し、イメージを結びやすい。マリコというキャラクターの存在が、彼女が死んだことによってシイノの中で反響し続ける、その"声"を私たちは耳にするわけだが、それが翻ってマリコの実在感を際立たせる。
マリコというキャラクターに、ある意味で釘付けにされることが本作の狙いなのだ。


虐待サバイバーたちに捧げられた物語。
マリコは、人が理不尽に人を傷つける悪循環にはまって壊れてしまった悲運な女性だ。そのうえ彼女は自ら命を絶つという選択をし、その彼女の死によって本作の物語はスタートするわけだが、原作者の平庫ワカは、小学生の女の子が虐待死する事件が頻繁に起こっていたことや、平庫自身の身近にいる虐待サバイバーに話を聞いた際、「自分は何もできない」というシイノと同じ気持ちを抱え、「どうにかしないと」と考え、思いを吐き出した作品であると語っている。
本作ではマリコがいかにして壊れたのか、というよりも、それらのファクターを要所要所垣間見せるに留め、結果として壊れたマリコから伺い知れる、その凄惨さ、過酷さを類推させるという作りになっているのが興味深いところだ。この視点はそのままシイノにフィードバックされ、私たち観客に接続される。
何もしてあげる事が出来なかったシイノの無念の悔恨は、半強制的に物語を観た者にも伝播する。

物語後半になると、マリコには彼氏がいた事が明らかになってくる。それも1人や2人ではない。
作中明言されることはないが、彼女は自身の身体を提供することで異性と繋がれる術を自覚している。それは過酷な日々の中、一瞬の泡沫の如く、彼女に甘く柔らかな夢を見させることもあったのかもしれないが、作中語られる通り殆どの男は皆、彼女の父親と同じようなタイプの人間だ。それでも依存を辞められない怖さを強烈に感じさせるのが、喫茶店でのシイノとのやり取りの中で見せるマリコの失われた目の輝きだ。このシークエンスの絵作りは真に恐ろしく、マリコというキャラクターを強烈に脳裏に焼き付けることに成功している。
そしてまたシイノの慄きと、依存的なマリコを疎ましくも感じるその感情は観客のそれと同期する。


何もないけど生き残ってしまったもの。
失われた親友を弔う女性の物語と聞くと、エメラルド・フェネル監督の『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020年)を思い出す洋画ファンも少なくないだろう。
だが『マイ・ブロークン・マリコ』の場合は復讐を目指す話ではないし、終着点はだいぶ異なる。
シイノにはマリコしか居なかった、ということが劇中語られる。過去回想の中において、勝気でいわゆる不良少女だったシイノが学校やそれ以外の場所で他の生徒や、友達と会話しているようなシーンは描かれない。それはマリコも同様で、同じ孤独を共有していたからこそのシンパシーがあり、そして共依存だったのだろう。

遺骨を奪還したシイノが脱出の際、川に転落し、そのまま川を渡りきる場面がある。これはまさに故人であるマリコとの道行きの始まりであり、同時に黄泉の国へと渡り行く様を想起させる。
死んだマリコに思いを馳せれば馳せるほど、シイノは孤立し、何もない人間であることが顕になる。
この弔いは彼女にとって、生きた社会から切り離されてゆくプロセスなのだ。
マリコの存在がすべてであった彼女の中で、マリコの声がリフレインする、多くの時間を共有してきた無二の親友が、死の間際にはシイノに何も残さなかった。その謎がシイノを混乱させ、苛む。
残された彼女にはマリコに感情をぶつける事すら出来ない。出来るのは悔やみ、葛藤し、生前マリコが残した、「シイちゃんが他の誰かを好きになったら、自分の事を嫌いになったら、私死ぬから」という呪いに身を浸す事だけだ。

だがすんでのところで彼女は生き長らえる。それはマキオが渡してくれた人間的な優しさ、それでも生きていかなければならないという根本的な問題へと立ち返らせてくれたその優しさが、彼女を再び生の連鎖へと引き戻してくれたのだ。

またその再起のプロセスにおいて、タナダ監督の作風に共通する、どのような人間にも居場所はある、どのような人間であっても善し悪しがある、というある種の"人間味"がシイノを救うのだ。
例えば会社の"クソ上司"がまさにそれだ。ブラック企業を体現したような、まさしく疎ましい人間が垣間見せる、意図せずの"思い遣り"のようなものが、ほとんど黄泉の国へと渡り掛けていたシイノを生者の世界へと繋ぎ止める。

またそれはシイノに限らない。マリコの父親もそうだ。すべての元凶であり、諸悪の根源である、この父親を描くにあたって、タナダ監督が細心のバランスを心掛けているのが伝わってくる。そして、そんな最低最悪な父親をも救う存在も描かれているのだ。人によっては彼に分かりやすい因果応報が与えられない事を不満に思う向きもあるだろうが、タナダ監督は更に深いフェーズで人間を捉えている。作中に語られこそしないが、彼が懊悩し続ける未来を、この作品はたしかに暗示しているのだ。
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