朱音

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)の朱音のネタバレレビュー・内容・結末

4.5

このレビューはネタバレを含みます

アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督流『8 1/2』あるいは『気狂いピエロ』、つまりは映画による現実への克服のアプローチだ。

優れた映画監督という生き物はある一定の評価や、商業的成功を収めると自叙伝的な作品を撮らなければならないという、使命感、もとい強迫観念に駆られるものなのだろうか。
フェデリコ・フェリーニの『8 1/2』(1963年)に代表される、ある種のメソッド・ディレクティングは、映画作家の抱える現状へのマンネリズムやルサンチマンの発露として機能し、そのカタルシスを現実世界へとフィードバックせんとする自浄効果を齎す。ジャン=リュック・ゴダールが私生活の(主に女性問題の)悩みを解消するために映画制作を物理的に私物化していたのは有名な話だし、北野武が『TAKESHIS'』(2005年)や『監督・ばんざい!』(2007年)において、自身の芸術観を蓮實重彦的、いかにも小難しい人文哲学のコンテキストに基づいた評論家筋にだけではなく、大衆に向けて喧伝したい願望を顕にした経緯にも見られる奇異な現象だ。

本作の冒頭では、詩人レイモンド・カーヴァーの詩が引用されており、そこでは、詩の文字がアルファベット順に現れるという特徴的な映像表現が使われている。これはまさにジャン=リュック・ゴダール監督の『気狂いピエロ』(1965年)のオマージュだ。

イニャリトゥ監督の本作、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』にも自己評価を巡る深刻なアイデンティティの問題が見え隠れする。

アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督のフィルモグラフィは、どれも評論家からの評価は高く、カンヌやアカデミー賞を始めとする各映画賞で度々受賞やノミネートを受けている。
一方で彼の作品が興行的にも恵まれているのかといわれると、前作の『バベル』(2006年)はブラッド・ピットらのキャスティング効果もあって、それなりにヒットしていると思うが、監督本人の満足のいく結果ではなかったのだろう。アルフォンゾ・キュアロン、ギレルモ・デル・トロ、そしてイニャリトゥ、映画ファンの間でメキシコ三羽カラスと呼ばれる3人の中では一番文芸臭く、評論家筋の人気はあっても観客の人気は2人に徹底的に劣るのが現状だ。それもあってか本作『バードマン〜』の2014年の公開に至るまでおよそ8年のスパンが空いている。ここをスランプ期と看做していいものかどうかはさておき、本作がイニャリトゥ監督にとってのメソッド・ディレクティングに則っているのは疑いようもない。


この映画はほぼ全編ワンカットのように見える、いわゆる擬似ワンカット手法で撮られており、とんでもない技巧と緻密な計算、スタッフ、キャストの阿吽の呼吸、弛まぬ忍耐力によって成し遂げられた快作だ。
アルフレッド・ヒッチコック監督の『ロープ』(1948年)、アレクサンドル・ソクーロフ監督の『エルミタージュ幻想』(2002年)など、全編ワンカットで見せる作劇には、途切れない緊張感や壮大なスケールといった、映画的スペクタクルを作品に齎すものだ。
だが、なぜそのような手法が必要であったのか、それを紐解いていきたい。


リーガンの現実と虚構が綯い交ぜになった世界。
リーガンが超能力を使えたり、過去に演じた「バードマン」が耳元で囁いたり、または道端でドラムを叩いていたはずの男が、いつの間にか劇場の給湯室で演奏していたり、不思議な現象と、劇場周りでのドタバタした日常が、文字通りシームレスに、渾然一体となって映し出される。この光景は現実と虚構の線引きが曖昧になった、重度のストレスにより統合失調になったリーガンの視点そのものだ。彼にとってそれは並列であり、見えていることの全てが彼にとっての真実と同義であることを観客に追体験させる、そういう狙いがある。


内容に呼応した演出。
一世を風靡した映画俳優であるリーガン・トムソンが、レイモンド・カーヴァーの『愛について語るときに我々の語ること』を題材にブロードウェイでの演劇公演を行おうとする。架空のヒーロー映画『バードマン』で一世を風靡し、いまや過去の人となったハリウッドスター役を演じるのは、実際にティム・バートン監督の『バットマン』(1989年)で一躍スターとなったマイケル・キートン。イニャリトゥ監督らしい絶妙に気の利いた演出は、どこかあざとさも感じさせるが、"一発屋"のハリウッドスターがブロードウェイで初めて演劇に挑む際に選ぶ題材がカーヴァーの短編であるというのが興味深い。

イニャリトゥ監督によれば「初めて手掛けるには最悪の選択」だそう。

映画では、演劇にするための大幅な脚色が加えられているようだが、もともとは二組の夫婦が台所でテーブルを囲み、語り合うワンシチュエーションの短編小説だ。
元夫や元妻の話をしながら自分たちの愛について語り合ううち、ふとしたきっかけで、ひどい交通事故にあったある老夫婦の話になる。最初は軽い笑い話だったはずが、話が終わったとき、4人の間に漂う空気は微妙に変化している。
そして実際の小説はミニマルな構成を決して崩さない。
場面は変わることなく、彼らはジンを飲み、軽く冗談を言い合っているだけなのだが、部屋が真っ暗になっても誰一人テーブルから立ち上がらず、明かりをつけようともしない。食事に行こうと提案しても誰も動かない。たったそれだけの描写によって、何かの局面が変わってしまったこと、そして4人ともその決定的な変化に気づいているらしいことが暗示される。盲目的な愛を育む老夫婦の話をするうち、彼らは自分たちの夫婦関係に本物の愛などないことに気付いてしまったのだ。テーブルから立ち上がれない男女を残したまま、いかにもそっけなく、カーヴァーの小説は終わる。

突然何かが終わってしまったことに気が付くのは、すでに終わってしまったという事実から長年目をそらし続けてきたからだ。少しずつ破局が訪れているのにそれを見ようとせず、気づいたときにはやり直すチャンスさえ失われている。

このストーリーラインは『バードマン〜』のリーガンのそれと重なる。自分のキャリアも、娘との関係も、もう立て直せないほどの危機を迎えているのに、それを直視せず無駄なものばかりに視線を漂わせている。人の無意識下における視野狭窄が本編の"痛さ"を物語っている。

本作では、カーヴァーの短編を大きく改変した様子が見て取れる。劇のラストではリーガン演じる主人公が妻帯者の友人と妻が不倫をしている現場に突撃し、自分が誰にも愛されていない現実を嘆き、自殺を図るのだ。

つまり、何もかも上手くいかず、誰にも愛されず、どん詰まりで後が無いリーガンは劇中劇『愛について語る時に我々の語ること』の主人公と同じ境遇にいる事が示唆されており、リーガンは自分では自覚しないまま、実際に劇中の登場人物と同じ境遇となり、同じ願いを渇望し、同じ絶望を抱き、同じように自殺を図るわけだが、これが意図せず、アクティング手法におけるメソッド演技と重なるのだ。


無知がもたらす予期せぬ美徳。リーガンの再起。
これは本作のタイトルの原題を直訳したものだ。
「舞台を見ないで貶す!」と息巻いていた評論家のタビサは結局初日舞台を観賞し、実際に拳銃自殺を図ってみせたリーガンの鬼気迫る様子や、周囲の期待値の高さから高い評価をせざるを得なくなる。あるいは彼女は"芸術の死"を認めたのかもしれない。芸術性にとらわれすぎる在り方と、大衆に迎合せざるを得ない批評界隈の複雑な事情も解釈の余地がある。
それでもリーガンとの言い合いの際に見せたプライドにより、嫌味交じりの評文となり、その見出しが本作の副題でもある、「無知がもたらす予期せぬ美徳」なのだ。

つまり「無知な舞台素人が命懸けの本気になったら、異様に凄いものが出来上がったけど、これは無知だから出来るもの、許される類のものであって、プロの仕事ではない」という寸評である。
ここでいわれる"スーパーリアリズム"という言葉が異常にそら寒い。演劇は本来そんなに甘いものではないはずで、いくらなんでも揶揄が過ぎるだろう。イニャリトゥ監督の舞台芸術と、それを取り巻く評論界隈に向けたルサンチマンが爆発する。

芸術性と対峙する大衆性の戦いは本作のサブテーマといえるだろう。

嫌味でも賞賛され、話題をかっさらった彼の舞台は大成功を収め、プロデューサーはロングランの皮算用を始めるが、文字通り死んで甦ったリーガンからはかつての執念が取り除かれている。
別れた妻や娘と、愛ある抱擁するリーガンにとって『愛について語る時に我々の語ること』の登場人物とはかけ離れた人物になってしまったのだ。

それに代わって、銃で撃ち抜いた鼻はまるで「バードマン」のように高く鋭く整形されている。
自らの惨めな境遇からメソッド・アクティングで舞台を演じたように、身も心も「バードマン」になったリーガンは病室の窓から飛翔してみせる。

この場面において、登場する「バードマン」がトイレに水で流していたのは彼の"鼻"だろう。リーガンは彼自身の行為によって、また周囲の愛に支えられて"鼻っ柱"を叩き折ったのだ。その開花がラストの飛翔であり、娘のサムが窓の外に見たのはおそらく、『バードマン4』においてクレーンに吊られて空を飛ぶ彼の、その境地に達した姿の暗喩だ。


メタの中のメタ、入れ子構造の面白さ。
本作は落ち目のハリウッドスターの挫折と再起を描いたメタ構造の作品であるが、先述した通りイニャリトゥ監督の現実への対峙を克明に記録したメタ構造の作品であることは明確だ。つまり入れ子の形をとってメタの中で自身のメタを行っているのだ。

『バードマン~』の劇中でリーガンの抱える問題と、イニャリトゥ監督の置かれた立場は正反対だが、全く同じだと言える。
リーガンは外に出れば「バードマンだ!バードマンだ!」と人に囲まれるが、評論家には「お前を潰す!」と脅される。
イニャリトゥ監督は評論家からは高い評価を得るが、先述した通りキュアロン監督やデル・トロ監督ほど広く、多くの観客には愛されていない現状がある。イニャリトゥ監督のそんな状況が本作の物語と、ワンカットという技法に繋がったと思われるのだ。

リーガンは家族からの深い愛を求めては得られない苦悩を、舞台の上で自殺するという奇妙な方法で表現し、ついに求めた通りの愛を得る。
イニャリトゥ監督は観客からの熱狂的な愛を求めては得られない苦悩を、2時間ほぼワンカットという奇妙なスペクタクルとして作り上げ、期待通り多くの観客の支持を得て、アカデミー賞の作品賞および監督賞を含めた四冠を受賞するという快挙を成し遂げた。

この映画はおかえりキートン、おかえりイニャリトゥ監督、という多重構造によって、他では類を見ない映画体験を観客に齎すのだ。そのハラハラドキドキの鼓動に呼応するフリースタイルのドラミングの伴奏も最高にクールで気持ちがいい。


イニャリトゥ監督作品に一貫して描かれているテーマは絶望的な状況の中での家族愛、失った息子、娘との関係。舞台の成功、サムとの関係の回復は"予期せぬ"ものだっただろうが、しかし"奇跡"ではなくリーガンが考えあぐね続けたからこその"美徳"なのだ。
無知だったとはいえ、やり遂げた彼の元にあったのは"奇跡"という曖昧な大きな力ではなく"美徳"だ。


火の玉とクラゲ。
終盤「バードマン」はリーガンにこう囁く。

「俺たちのやり方で派手に幕を閉じるんだ。炎に向かって飛べイカロスよ」

イカロスとは、ギリシャ神話に登場する人物のひとり。蝋でかためた翼を広げて太陽に挑むものの、熱で蝋が溶けて落下死してしまうという彼の神話には、人間の傲慢さを批判する寓意が込められている。
『バードマン〜』の冒頭とラストで描かれる地上に落下してくる火の玉は、このイカロス神話に重ねて、「バードマン」、つまり過去の傲慢な自分が燃え落ちて死ぬことが表現されたものであり、海岸に打ち上げられた無数のクラゲは、同じように死んでいったものたちの屍であると読み解くことが出来る。作中リーガンが語る、海で入水自殺を図ったというエピソードの中で、身体中をクラゲに刺されて激痛を味わったというのも、こうした暗喩に基づいている。
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