朱音

佐々木、イン、マイマインの朱音のネタバレレビュー・内容・結末

佐々木、イン、マイマイン(2020年製作の映画)
4.7

このレビューはネタバレを含みます

「友達って何だろう?」
ということを考えた。何となくいつもつるんでいるから友達?困っているときに手を差し伸べてくれる存在?時間を持て余した時の暇つぶし相手?同じ感情を共有した仲間?

そして自分の友達の姿を思い浮かべてみた。
私が知る友人たちのすべて。だが、それが果たしてその友達という、1人ひとりの人間を形作るすべてなのだろうか。
答えはもちろんNoだ。
私が知る限りの友人たちは皆、私という人間の前で見せるべき顔をしている。そのように振舞っている。
ペルソナ、あるいは分人主義という考えがある。だがそのような深層心理学、または人文学的な思考に寄らずとも、人は皆一様に他者と他者との間で自分というキャラクターを再定義し、演じている。無言の求めに応じるようにして。なぜならそれが営みだからだ。

私にとって友人はかけがえのない存在であり、同時に儚い存在でもある。私の人生に少なからずの影響を及ぼし、私もまたそのような役割を担っている。その一方で、特に兆しやキッカケらしいものもなく、いつの間にか疎遠になり、その存在を日々の生活の中に埋没させてしまうこともある。

友達とは、近しいようでいて、実は非常に得体の知れない存在なのだ。


本作は内山拓也監督の劇場用長編映画デビュー作だ。自主映画作品『ヴァニタス』(2016年)がぴあフィルムフェスティバルワード2016・観客賞を受賞。井手内創との共同監督である中編『青い、森』(2018年)、他にはKing Gnuの『The hole』や平井堅の『#302』、そしてドラマ『テセウスの船』(2020年)の主題歌としても話題になったUruの『あなたがいることで』のミュージック・ビデオなどを手掛けた若手の俊英である。

ジャンルや手法こそ違えど、常に"人"とその"関係性"にフォーカスを当てているのが特徴だ。

内山監督によると、

「どんなジャンルの映画だろうと、大半は結局のところ青春映画だと思っている。」

とのこと。彼が定義する、「青春映画」とは一体どのようなものであろうか。

「結局のところ、僕らは『青春ごっこ』をしている人生でしょ?と思うところがあって。働いている人は、会社の中での人間関係が『青春』だし、家族ができればそこには『青春』が生まれる。このインタビューだって、話を聞きたいと思ってくれる人と、話す人との間に『青春』が起きているわけじゃないですか。僕も映画を撮りながら『青春』をしていると思うんですよね。」

つまり人と人とが出会って展開してゆくことを、内山監督は「青春」と定義しているようだ。

本作、『佐々木、イン・マイマイン』はもともと俳優の細川岳から話があったようだ。映画着手の6年ほど以前から細川は「佐々木」についての小説を書いていたそうだが、上手く纏まらず、内山監督に話を持っていったのが本作の始まりである。
細川の旧友である「佐々木」がどれだけ面白い人物であるか、それをどう映画として面白く見せられるか、本作の最終稿が出来上がるまでにはかなりの時間を要したそうで、細川はこれを最後に俳優を辞める、という覚悟のもとにこの企画を進めていったとのこと。
この一連の作業も内山監督によれば「青春」なのだろうと思う。
佐々木という人物がいて、それに感化された若き頃の細川がいて、細川を取り巻くいまの状況があって、そうして内山監督とのタッグによって実現されたこの『佐々木、イン・マイマイン』はまさしく「青春」そのもの、映画の内容をそのままフィードバックさせたような、こうしたバックグラウンドにおける人と人との展開がエモーショナルに感じられる。


パンフレットに記載された内山監督のコメントによると、

「『自分の人生においてもそんなやつがいたな』と思えた。僕の記憶を、(細川)岳が岳の言葉に置き換えて話してくれているような感覚がした。」

「この話を自分事として捉えていた。」

とある。これは本作を鑑賞した多くの観客が同じように味わった感覚なのではなかろうか。
誰の中にも「佐々木」はいる。なんとなく憧れて、なんとなく笑っていた存在。かつて「佐々木」だった者だっているかもしれない。
つまりこの物語は、私たちの話であり、私たちの中の「佐々木」に向けた話、そしてこの話を、私たちは今しなければならない、という切実な感情があり、そうしなければ前に進めない、のだ。

そういう人生における"本気"が、今作からは熱として伝わってくる。そういう作品だ。


本作の主人公の悠二は人生のあらゆる局面で、中途半端な、不完全燃焼状態に陥っている。
役者業を細々とやっているが、芽が出ず、それも完全に諦めるでもなく、しかしなにか積極的にやるでもなく、という状態であり、別れを切り出された彼女との関係も解消出来ずにズルズルと同棲関係を続けている状態で惰性な日々を過ごしている。

劇中、そんな悠二と、才能ある後輩・須藤が出演する演目がテネシー・ウィリアムズの『ロング・グッドバイ』だ。タイトルを聞いた瞬間レイモンド・チャンドラーの名前が浮かんだが、この『ロング・グッドバイ』はフィリップ・マーロウ・シリーズのそれではなく、『欲望という名の電車』、これは1951年にエリア・カザン監督、マーロン・ブランド主演で映画化もされているから知る人も多いだろう、ブロードウェイでもお馴染みの演目だ、他には『ガラスの動物園』『地獄のオルフェウス』『しらみとり夫人』『ぼうやのお馬』などの戯曲で知られるテネシー・ウィリアムズの知られざる名作短編だ。

『ロング・グッドバイ』も、他のテネシー・ウイリアムズの作品と同じく、ただ一つの救いを見出せない状況が描かれている。作者と重ねているようにも思える作家希望の主人公の台詞は、

「おれたちは、いつもいつも、サヨナラを言ってるんだ……生きている時間の一瞬一刻に向ってね! それが人生というものさ……ながい、ながい、サヨナラ! 今日もサヨナラ、明日もサヨナラ……最後のサヨナラを言うまでは! その最後のやつってのは、世の中に対する、自分自身に対するサヨナラなんだ!」

『佐々木、イン・マイマイン』ラストの疾走シーンにて悠二が叫ぶ台詞だ。

映画で興味深いのは、悠二の宙ぶらりんで不完全燃焼な現在と、先述した戯曲『ロング・グッドバイ』の稽古風景、さらにはその「佐々木」たちと過ごした高校時代という、この3つが交互に、しかしはっきりと、連想的に紐付けしていく形で連なっていく作劇のつくりだ。現在の部分は基本、固定カメラ、フィックスで撮られているのに対して、過去は手持ちカメラで躍動感と臨場感を剥き出しに、という風に、タッチの違いなどで非常に対照性を持たせている。
それらの現在、過去が相互に入り組み、最終的にはある種、現在と過去、記憶が混然一体となったように語られてゆく。

最初はただ過去の回想は悠二の視点によるものだと思って観ていたが、佐々木単独の場面が入り込んでいたり、これは一体誰視点のものなのかと混乱する。だが振り返ってみると、本作のタイトル『佐々木、イン・マイマイン』が示す通りに、記憶の中の佐々木の、きっとアイツはこうであったんじゃないかな、という思いが入り交じった独特の構成になっていることが分かる。
さらにいうと、映画全体の視点というものは、私たちがずっと観ていた悠二の現在のもの、というよりは、さらに先の未来から振り返られたものであるかのような印象を受ける。
つまり、この映画は、悠二というひとりの人間を通した、記憶の中の自分たち、と佐々木、という構造になっているのだ。後述するラストのマジックリアリズムについても、これで説明が出来るはずだ。


佐々木というキャラクターの実像。
過度のお調子者で、はやし立てられるといつでもどこでも全裸で踊りだしてしまう。非常に負けず嫌いで、気ぃ遣いの人間でもある。周囲を巻き込むエネルギーがあり、場当たり的ながらも非常に躍動的に生きている。同時に、その見た目によらず、映画や文学、絵画に傾倒している、真面目な文化系男子であって、そのギャップがまた魅力的な人物だ。
そして、その家庭環境ゆえに時折垣間見せる、不安げな、影のようなものが深く心象として残る。
私の印象的には、彼は少し、他の男子たちとは異なるフェーズで物事を見ているフシがある。

彼の周囲にいる悠二や多田、木村たちは、あまりそういった佐々木の家庭環境について深くは知らない素振りを見せている。干渉しないという彼らなりの気遣いももちろんあったろうが、それ以上に佐々木の日ごろの明るい振る舞いが、そうした影の部分へと向けられる視線を逸らしていると表現する方が正しいのかもしれない。

表面的な付き合いの人からみると、「あいつ、変わんないよ。相変わらずだったよ」というような、どこにでもいるクラスのお調子者、のひとりでしかない存在だが、本作のキャッチコピー「佐々木、青春に似た男」に表されている通り、彼は「青春」というものを体現した存在として描かれている。


「サヨナラだけが人生だ。」その意味。
沖田修一監督の『横道世之介』(2013年)と比べられる事の多い本作だが、明暗のタッチは違えど、その本質はたしかに似ている。

「青春」というものが、開かれた可能性を示しているのだとしたら、登場人物たちは、ひいては私たちは、その開かれた可能性の中から取捨選択をして生きてゆく。無数にあったかもしれない可能性を振り返りつつ、自分が選んできたひとつの道を信じて前に進もうとする。それが青春を経て大人になってゆくというプロセスであり、それ自体がかけがえのない、同時に苦しくもあり、ひどく愛おしくさえも感じられる過程であったこと、それを呼び起こすことこそが"懐かしい"という感情の本質なのではなかろうか。

その意味でいうと、佐々木という存在は、無数に残された可能性の真っ只中にいる、そのままの状態で、文字通り停止してしまった存在ではないだろか。それは永遠の青春であることを意味する。

だからこそ、悠二というキャラクターの優柔不断と激しく呼応するのだ。
再び『ロング・グッドバイ』の台詞を引用すると、

「人生とは小さなサヨナラの積み重ねだ。」

ということだ。自分の人生の様々な状況、関係性にサヨナラをいえない悠二は前には決して進めない。つまりその他の可能性を閉じていかないと、ある可能性を選べない。サヨナラをしていかないと前に進めない人生そのものを表している。

内山監督が多大な影響を受けたという映画監督・川島雄三の、非常に有名な言葉、「サヨナラだけが人生だ」。これが、まさにこの映画のコンセプトに相応しい。悠二が決断したサヨナラに感涙する。

佐々木という存在は、死んでその時を止めた人間であるが、それ以前にも彼の可能性は果たして開かれていたのかというと、必ずしもそうではない。
先述したように家庭に問題を抱え、人格的にも、素行も、いわゆる不良少年であった佐々木は、その可能性を手にする前の前の段階で、自分自身の環境に、人生に、多くのことを諦めてしまったのである。
佐々木が言っていた「パチンコ屋に並んでいる汚ねえおっさんたち」と自分がスムーズにシンクするその感覚は、彼のそうした諦観からきているものだ。だから彼は友人に言葉を掛けるのだ。

悠二に向かって言った台詞、

「お前は好きなことをやれ、好きなように生きろ、お前は大丈夫だから。」

その刹那に零れ落ちた一筋の涙。その意味するところは、「俺には好きなように生きることは出来ないし、大丈夫じゃない」という痛切な訴えの裏返しに他ならない。

カラオケ屋で知り合った女性・苗村たちとの儚い交流がこの映画の、佐々木というキャラクターに対するほんのささやかな手向けのような優しさであったことに気付く。彼は孤独ではあったかもしれないけれど、こんな素敵な時間もあったのだ。


赤ちゃんを抱っこして泣いた悠二。
ラスト付近で、悠二がサヨナラをいう決断をする、その直前のシーンが印象的だ。
泣きじゃくる赤ん坊を抱っこしながら、感極まって泣いてしまう悠二、これが意味するところは、赤ちゃんというのは、それこそ無限の可能性の塊である、その限りない未来をもつ赤ん坊の泣き声にシンクする形で、彼は感じたのだろう、佐々木が泣いていたとき、自分にはなにも言ってあげることが出来なかったのだと。かつて向き合ってあげられなかった友人に対するシンパシーはそのまま自分の実人生へとフィードバックされる。
だからこそ、彼はあのとき決断出来たのだ。

そして前述した『ロング・グッドバイ』の台詞を叫びながら疾走する。かつてみんなと一緒に通ってきた道を"逆走"するのだ。
このクライマックスの、これまで積み重ねてきた描写と、キャラクター、人生、たくさんのサヨナラ、そういったものが渾然一体となった凄まじいテンションになっている。切実で真摯な人生に対する向き合いがある。本当に素晴らしいシーンだ。


意表を突くラスト、永遠の「佐々木コール」
本作のラストの突拍子もない展開に驚いた観客は多いだろう。あるいはその時点で、映画から心が離れてしまった人さえ居たかもしれない。
たしかにこれまで描かれてきたのは極めて実在的でかつ、写実的な現実そのものと地続きになった世界観とドラマだ。それをずっと見つめてきた私たちの立場からすると、あのコントのようなラストの描写はいい意味でも悪い意味でも裏切りであることは明白だ。賛否両論あるのは当然であろう。

だが私は、あのラストに込められた映画的マジックリアリズムによって表現された非現実的なまでの、圧倒的な人生賛歌、永遠の「佐々木コール」を支持したい。あれがあったからこそ、この映画は私の心の最奥に深く突き刺さったし、激励されたような気がしたのだ。

では「佐々木コール」とは何だったのだろう。
それは彼がお道化として演じる舞台の歓声であるのと同時に、彼を強制的に"いつもの"「佐々木」たらしめていた呪縛のようでもある。彼の父親が亡くなった日の翌日に、徐に登校してきた佐々木はいつもと変わらない調子を演じているが、周囲の人間たちはそれでも彼を案じている。だが、その案じられるという状態、それ自体が佐々木にとっての嫌悪なのだ。彼は家庭の話をしたがらない。話を振られても、のらりくらりと、気のない素振りで返事をするだけだ。
周囲が求める「佐々木」に、佐々木自身が耽溺していたことの現れといえるのではないか。
彼はずっと「佐々木」でありたかったのだ。

あの日、悠二たちは「佐々木コール」を叫べなかった。その悔恨のようなものが、悠二の心に澱みをうんでいる。それは、もしかしたら自分たちが出来たかもしれない佐々木の救済を暗示している。
佐々木が「佐々木」であり続けられること、それが彼らにとっての友達としての絆であったのだ。

彼の死の報せを受けて、彼らは立ち返る。佐々木と過ごした日々を、そうして「佐々木」の不在を痛感するのだ。多くのイニシエーションに祭りや儀式が必要なように、彼らのそれにもある種の喝采が必要であった。
それがこのラストに響き渡る「佐々木コール」なのだ。


さいごに、
主人公・悠二を演じた藤原季節、実在する級友「佐々木」を、文字通り再現してみせた細川岳の覚悟の芝居、どれをとってもキャスティングや演技演出に隙がない。非常に実在感があり、親しみが感じられる。このような青春映画こそが、日本の得意とするフィールドなのだと痛感させられた。

私はこの映画が好きだ。
朱音

朱音