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ママおうちが燃えてるののotomisanのレビュー・感想・評価

ママおうちが燃えてるの(1961年製作の映画)
3.4
 まことにのんびりしたような切羽詰まったようなタイトルに笑ってしまった。しかし、お家が燃えてしまったら大ごとだ。しかも、ママはそばにいない、それは明らかに電話での報告文である。
 フタを開けてみると、お屋敷町に暮らす一家を「シングルマザー」とも「母子家庭」ともどこか言いづらい。性格の不一致で夫が出て行って子どもは実に6人。鎹6本でも持たない不一致ぶりはおいおいママ本人と子どもたちから説明があるからそれとして、話中、夫の姿は意地でも出させない構えと受け取れるものの、不一致なのであって嫌いな同士と云うのとも違うようだ。

 そうした辺り、戦争や事故事件で夫を亡くしたなんて余儀ない事でなく、若気の至りという過ちとも違う。また、都会に働きに出た夫が蒸発したり、よその誰かに走ってなんて暗い事情の影が差す事もない。そこが「江分利満氏」の時代の新しい離婚後事情というわけである。
 従って、舅達は影も形もないし淡島ママの勤め先もなんの曰くありやJOQR文化放送である。生活費はそれで賄うとして、子どもたちの掛かりはどうするかといえば、元夫君は弁護士であるそうな、新たな家庭を持つでもなさそうで、ならばなんの経済的不安があろう。

 とはいっても星霜7年、真ん中の息子は早世するし、末っ子は中耳炎を拗らしての障害があるし、高校娘の二人は母に似たのか勝ち気でなにかと女3人で姦しい。ついにパパっ子の尖んがり次女が高校をやめて働くといいだしたのをきっかけに娘二人は喧嘩別れのように家を出て、我勝ちな女3人がばらけてしまう。
 そんな傍らで、つまり父親似という事なんだろう男3人、家事上手な大学生、長男ほか甘えん坊風ちび次三男がまことに従順である。父親を呼んでくるまでもない、3人を並べてみればその延長に父親があるわけだ。いまはママに甘えていても、年頃になればママとは違うタイプの女性をと語り、それでも、親の背中を見た甲斐か?十分ママに協力的に振舞い、波乱含みな女3人が開けた一家の穴をうまく救っているようでもある。
 つまり、調子のいい話なのだ。ただ、核家族化を背景に、うちは夫婦共稼ぎでボクは鍵っ子だの、パパは「博多のチョンガー」ですなんて家庭も珍しく無くなろうという時勢が始まっている。片親で勤めに出なければならない中、標題通り、お家を燃やしてしまう子もいれば、我が道をゆく子は勝手に道を拓いてしまう。さあどうしようとなる前に案外、文化放送に問い合わせればその道の先人が現にいたのかもしれない。
 あの時代、この物語のように「新しい女」が鎌首を持ち上げる一方で、戦時中あわや国に食い殺されそうになった男たちは平和憲法のもとで政治を嫌い、ならばとて民生を支える経済の強化、さもなくば家庭の安泰、悪しくも罅の入った家庭であっても粛々と陰に殉じてくれる幻のような存在とでも受け取られたのだろうか、不思議な話である。

 それはさておき、少なくとも家事労働の友であったラジオ放送には子どもにまつわる悩みの声も数々舞い込んできたのだろう。または、性格の不一致がどうにも我慢ならない悩み、それで離婚しても、まるで共感を得られないなんて悩みも舞い込んでいたんだろう。
 ここ淡島家も離婚しなければ絵に描いたような恵まれた一家であって、離婚しても少なくとも経済的な困難は避けられそうなケースでもあって、その上で母親が一人のわたくしとして、子らと共に独り親でしかいられない事情を通し得る時代が訪れたのだ。今こそこの映画を撮る時宜を得たと感じた事なんだろうが、それ以上の事、しかもごく稀な事以上とも思われない。しかし、身も心も財布の中も男に頼らない母親の一例を批判覚悟で世に送ったのだと思うと、ちょっと、おとぎ話以上に感じられて来る。
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