マティス

夕なぎのマティスのネタバレレビュー・内容・結末

夕なぎ(1972年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

恋愛あるある


 大好きな映画。ロミー・シュナイダーの魅力が画面にあふれていた。脚本も好き。あり得ない話だと思う。映画だからこんな話が出来る。でも、だから映画を観るんだ。

 この作品は、恋愛事例研究、あるいは恋愛マニュアル、恋愛あるあるだと思う。人を好きになった時の心の機微がよく表現されていた。特に会話が絶妙だった。

 初めは愛した女に捨てられてしまう、哀しい中年男の話かなと思って観ていた。そう柳原白蓮と伊藤伝衛門のような。(でも、世の中の人が思うようには、私は伊藤を哀しい男だと思っていない。伊藤にとってはあれで良かった)

 美しく、セクシーで、賢くて、チャーミング。ちょっと気は強そうだけどそこも魅力で、ちゃんとわがままな自分を立ててくれる。ロミー・シュナイダーは地のままで演じているんじゃないかと思うぐらい、はまり役だった。

 別に恋愛上手じゃないけど、この作品をちょっと解説してみようと思う。

 世の中にこれ以上の女はいないというような女に巡りあって、あろうことかその女が自分のことを、愛している、と言ってくれている。天にも昇るような気持ちとは、まさにロザリーと暮らし始めたセザールの気持ちだったと思う。
 幸せいっぱいなセザールだったが、心のどこかに、なんでこんないい女がこの俺のことを?という疑問があったのではないか。それは、いつか彼女を失うかも知れないという不安の裏返し。俺はすごい男だから、女が惚れるのは当たり前だ、と思う男もいるだろう。でも、私はセザールの不安は分かる。

 俺が人よりも上回っていることがあるとすれば、金儲けがうまいことと、人を楽しませること。セザールは気に入ってもらおうと、馬車馬のように働き、まるで道化師のように周りの人を笑わせる。その姿はかごの中でくるくると回転玩具を回し続ける二十日鼠のようだ。正直言って疲れるけど、これもロザリーのため。そんな感じだったと思う。
 
 彼は、自分の愛には自信があったが、自分自身には自信がなかった。でも、彼には彼も気づいていない大きな美点があった。

 はい、ここはポイントです。自分をこんな男なんだと、自分で自分のことを枠に押し込めてしまわないこと。自分が気づいていない美点があるかも。逆の場合もあるけど。

 そこに現れる昔の彼、ダヴィッド。観ている私は、キターッと思う。若くて、ハンサムで、それに知的な雰囲気。バッハの暗譜を1曲だけ、それもおちゃらけで、の俺とは土台が違う。しかも俺よりも前からロザリーと付き合っていたと言う。
 そのダヴィッドが、セザールに堂々と、「正直に言おう、彼女のことを愛している」なんて言うものだから、さぁ大変!となる。

 はい、ここもポイント。いい女であればあるほど、当然過去にいい男と付き合ったことがあると思うべき。いい女がずっと一人で自分との出会いを待っていた、なんていう眠れる森の美女のようなおとぎ話的願望は持ってはいけない。今付き合っているのはこの俺なんだと、どんと構えておくのが大事。

 ロザリーがダヴィッドをどう思っているのかが気になって気になって仕方がないセザールは、何度もロザリーに聞く。レストランでの会話が秀逸だ。

「彼の魅力は知性か?僕はプルーストじゃない。」
「承知よ」遠慮なく、でもさらりと返すロザリー。この「承知よ」の感じがすごくいい。
「シックじゃないわね」と言われてしょんぼりするセザールに向けたロザリーの視線。まるで駄々っ子をあやすような優しい視線で、ロミーの魅力が満開だった。披露宴から帰る車の中でしなだれかかってくるロミーの視線も優しさにあふれていた。計算ではなくてあんな視線が向けられる女性は、素晴らしい。「目は口ほどに物を言い」というが、口よりも、だ。ここで気づけよ、セザール。自分は安泰だと。

 でも、不安でいっぱいのセザールはやめられない。
「君の本心がわからない」
「セザール、わかるはずよ。一緒にいるんですもの。彼と生きたければそうしているわ」
「奴のことは忘れろ」
「ムリよ。あなたはそればかり」

 ポイントです。不安に苛まれても、自分が愛した女だ、信じなさい!しつこく疑う男は嫌われる。

 でも、優しいロザリーは不安に思っているセザールの心中を察して約束する。
「分かったわ。もう彼とは会わない。」
 ほら見ろ、俺が強く押したから、ロザリーは約束してくれたとセザールは勘違いする。
 違う、違うんだよ、セザール。ロザリーだから約束してくれたんだよ。普通の女だったらもうとうにイヤになっている。
どんなに愛していても、その女性の心の内面まで入り込んで行って、コントロールしようなんて、やっちゃいけないことなんだ。

 調子に乗るセザールはここで一計を案じる。これでロザリーは大丈夫。でも待てよ、あいつがロザリーの前に現れたら、せっかくの彼女の決心が揺らぐかも知れない。よし、だめ押しをしておこう。
 セザールはダヴィッドのところに乗り込んで、ロザリーと結婚している、子供ができた、彼女のために人も殺した、それぐらい俺は彼女を愛しているんだから、おまえは手を引け、と嘘を言ってしまう。

 はい、ここはとても大事です。マーカーを引いてください。愛する人との間では、嘘をつくのは絶対にダメです。嘘をつく時は、関係が終わってもいい位の覚悟が必要です。

 ロザリーはちゃんとダヴィッドの求愛を断っていた。それも五年ぶりに会った日の翌日のことだ。その場面のロザリーの言葉も秀逸だ。
「あなたは私を五年間ほったらかしにした。」
「セザールは目の前にいる人」
「彼は私がいなくなれば、五年以内に私を探し出すわ」
 ちょっと自信はないけど、ここもポイントだと思います。女性は現実を大切にします(反論は受け付けます)。対して男性は夢想します。ダヴィッドは、ロザリーが自分の求愛を受けてくれると結構自信があったと思う。あんながさつな奴よりも、俺の方がってね。それなのにロザリーにピシャリと断られてしまう。車の中での二人のキスは、ロザリーにとっては最後のキスのはずだった。

 この作品を観て、二人の男の間で揺れ動くロザリーも悪い、と感じる人がいるかも知れませんが、それは間違いです。ロザリーは終始セザールに一途だった(なんていい女!)。それをぶち壊したのは、セザールの不安です。そしてそのあまり吐いてしまった嘘が決定打になってしまった。だから本当に嘘はダメ。

 一方、この場面では、ロザリーがここまで惚れるセザールとは何者?という関心がダヴィッドに芽生えます。
その後、場面が急展開します。

それぞれ身を引く三人

<身を引くダヴィッド>
 セザールが吐いた嘘が許せなかったロザリーは、セザールの家を飛び出して遠く離れた港町で、ダヴィッドと暮らし始めます。そこに現れるセザール。

 ええっ、あの男本当に探しに来た。五年どころか数週間しか経っていない。プライドが高い俺には、自分のところから他の男と逃げ出した女を追いかけるなんて、とても出来ない。でも、あいつは本当に来やがった。ロザリーが言った通りだ。自分はロザリーを愛している。でも、正直に言って仕事も同じくらい大事だ。しかし、あいつは違う。ロザリーだけだ。ロザリーはどっちと暮らした方が幸せなんだろうか。
 ダヴィッドの心中はこんな感じだったのではないか。この後、ダヴィッドは消えてしまう。

<身を引くセザール>
 またセザールとロザリーは暮らし始める。元サヤに収まったかのように見えた。でも違った。ダヴィッドのもとに突然現れるセザール。彼の言葉は切実だ。俺たち(セザールとロザリー)のところに来て三人で暮らそうと頼むセザールだが、ダヴィッドは断る。生半可な気持ちでロザリーとの関係を断ったわけではないから当然だ。セザールは苦しい心の内を明かす。

「彼女はたしかにいる。でもいないんだ。」
 たしかにロザリーと暮らしている。でも彼女は心ここにあらずで、脱け殻のようだ。そんなロザリーを見ているとつらい。彼女には俺ではなく、ダヴィッドがいないとダメなんだ。悔しいけど認めざるを得ない。
 ダヴィッドはロザリーとセザールが暮らしている別宅に向かう。でも、この時はダヴィッドはロザリーに会いに行くというよりも、セザールに応えるという気持ちの方が大きかったのではないか。
 セザールがダヴィッドを連れてきたことに驚くロザリー。そりゃあ、そうだろう。しかも、セザールは二人が夜を水入らずで過ごせるように、行きもしない仕事に行くふりをしてその場を去る。キキキーツ、という乱暴に車を発進させたセザールのタイヤの音が悲しい。なんでそこまで優しいの、セザール。私の涙腺はここで緩んだ。
 翌日、憔悴しきって帰ってきたセザールに優しく声をかけるロザリー。ロザリーはあらためてセザールの深い愛を知ったんだと思う。

<身を引くロザリー>
 ロザリーは、自分の存在が二人の男を苦しめていることに気づいた。それは自分が誰かに依存しないと生きていけないことが原因だ。二人のもとを去ろう。そして、自立する術を身に着けよう。ロザリーは二人の前から消えた。二人はロザリーの考えを慮り、もう探さなかった。
 心の平穏ということでは、深い愛情も深い友情も、根っこは同じなんだろうか。二人はロザリーを失ったが、かけがえのない親友を得た。

 三人はそれぞれ身を引いた。それは自分のためではなく、自分以外の人を思いやったからだ。

 エンディングで、二人が仲良く窓辺で食事をしている様子を見て、私は十分満足していた。これはこれで良かった。しかし、不意にカメラが不自然に動き、食事をしている彼らの背後から、表の通りが見えるようなカメラワークをした時に、次のシーンを想像して私の涙腺は崩壊した。ロザリーが戻って来るんだ!
 ロザリーは考えたと思う。ダヴィッドは他の女を見つけることが出来る。仕事もある。でも、セザールはそんな器用な生き方は出来ない。何よりも彼は心の底から自分を愛してくれる。セザールと一緒に生きて行こうって。

 セザールに、あんたが惚れた女はやっぱり最高だったね、と言ってやりたい。でも、ロザリーが彼を選んだのは、彼には最大の美点、無償の愛を注げる人だということがあったからだ。

大事なポイント

 この作品を観て、真に人を愛することとはどういうことかを、あらためて考えさせられた。それはただひたすら相手の幸せを願うことなんだと思う。自分のことは二の次。でも、それは愛というものの一つのバリエーションなんだと思う。

 他の方のレビューを読むと、この作品を否定的にとらえている人が多い。暴力的な振る舞いや独りよがりな行為、例えばセザールがダヴィッドを連れ帰ってくるところなどが、そう思わせるのだろう。それらを愛情とは思えないということだろう。

 よく真心を込めて尽くせば相手に思いは届く、というようなことを聞くが、そう思い切るのは少し待った方が良いと思う。セザールが全身で表現する愛をウザいと思う人もいるはずだ。それは、良い、悪いではない。大事なことは相手に自分の思いが届いて、それが受け入れられているかどうかだ。一方的な愛情表現はストーカーと変わりがない。自分がこれだけ尽くしているから、相手も応えてくれて当たり前だと考えるのは、場合によっては犯罪の一歩手前。
 自分の生き方や思いとシンクロする人、そういう人を見つけることが恋愛の大事のポイントなんだと思う。それがずれてしまうと、良かれと思ってしたことが何の意味も持たない。かえって逆効果になることもある。お互いにとって不幸の始まりになってしまう。

 この作品の原題は、「セザールとロザリー」だが、私は、「セザールとダヴィッド」でも良かったし、シンプルに「セザール」でも良かったと思う。恋愛について考えさせられた作品だった。
マティス

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