ろ

ビッグ・フィッシュのろのレビュー・感想・評価

ビッグ・フィッシュ(2003年製作の映画)
5.0

小学生のとき、新聞委員をしていた。
顧問は学年で一番厳しいと評判の国語の先生で、書き上げた新聞を提出するときはいつも、息を潜めて先生の前に立った。
卒業式の朝、アルバムにメッセージを書いてもらった。
先生は生徒一人一人に合った漢字一文字を選んで、卒業の餞にしていた。
私の番が来た、どうしようかなと呟いた先生は漢和辞典をぱらぱらとめくりながら、マジックで「慧」という字を書いた。その下には‘本質を見る’と続いていた。

「90%が海に沈んでいる氷山のように、水面に浮かぶ10%しか見えない。だから父さんという人が分からない」
現実にはありえない話ばかり聴かせる父に、息子は本当のことを話してほしいと願った。
しかしそんな話の数々こそ、父の人生そのものだった。

魔女の右目を覗き込むと、自分がどんな風に死ぬのか、未来が見えた。
近道をすると、裸足の人々が迎える、天国のような不思議な町に迷い込んだ。
サーカスの団長は黒いオオカミに変身したが、まるで犬のように懐いた。
知らなければ良かったこと、苦労して掴んだもの、しまったと冷汗を流したこと、とても怖い思いをしたこと、愛に命を救われたこと。
お父さんはオリジナルのおとぎ話に、息子へのメッセージを託していた。

親子だからこそ、近すぎてその想いに気付かないことがある。
にごったプールから、水面に張り付く藻や落ち葉を丁寧に掬って取り除かなければ、どれだけ水が澄んでいようと、上からちょっと覗いただけでは分からない。

怒って喚き散らす人は、心の中でわんわん泣いているのかもしれない。
幸せそうな人にケチをつけ、ひとときの優越に浸る人は、きっと寂しくてどうしようもないはずだ。
見えている氷山の一角を頼りに、想像を膨らませながら海の下へ潜っていきたい。
結局それは、自分自身を救うことなのだと思う。

本質を見るために感性を磨け、と通っていた大学の教授は半ば憤慨しながら繰り返した。
けれどこの物語のラストシーンで、息子が父とおとぎ話の世界を分かち合えたのは感性が鋭かったから、というわけではない。
そこに愛があるか、ただそれだけなのだと思う。




( ..)φ

卒業アルバムを開いたついでに、文集に寄せた作文を読んだ。
六年間の思い出、楽しかった修学旅行、といったタイトルが並ぶ中、私が作文に付けたタイトルは「スタート」。みんなと同じように将来の夢を語っているものの、文章から滲み出る力強さ、というより、プライドの高さや背伸びしているような違和感が相変わらずで、急に小っ恥ずかしくなった。

「本質を見る」ことも、「感性を磨く」ことも、今の私にとってどちらも同じだけ譲れない。
そしてその手助けをしてくれる、力を貸してくれるのが映画だった。
あの頃の私には想像もつかなかっただろう。
12年後の自分がこんなにも映画に支えられているなんて。
ろ