ハル

マディソン郡の橋のハルのレビュー・感想・評価

マディソン郡の橋(1995年製作の映画)
3.6
アイオワのド田舎で主婦として退屈な日常を送っている中年主婦が、旦那と子供が出かけている4日間の間に、ふらりと現れた写真家のおっさんと恋に落ち、女を取り戻す話…と言えば聞こえがよろしく、いささか文学的に過ぎるが、まぁ要するに、不倫を美化しているのである。

火葬にした後の灰は橋の上からばら撒いてほしいとか、この身の半分は家族に捧げたのだからもう半分はあの人に捧げたいとか、元がベストセラーの小説だから物語としては美しくまとまっているけれど、あらゆる感傷を排して冷静に見てみるとやはり鼻白んでしまう。関西っぽく言うと、何を言うとんねんこのオバハンは、といった風である。

なるほど、人妻の不満というのは、洋の東西を問わず、凄まじいものに違いない。とりわけ、このフランチェスカにしてみれば、アメリカのド田舎で退屈極まる生活をしてきたのだから、そのフラストレーションは想像を絶するに余りある。そこへ、自分と似た感性を持つ男性が現れたら、コロッといってしまうのも無理はなかろう。

しかし、不倫は不倫。4日間の秘事とは言え、家族を裏切った事実に変わりはない。

考えてみるに、フランチェスカは家族を捨てて別の人生を歩むこともできた。それをしなかったのは、家族への贖罪の気持ちがキンケイドへの愛を希薄にしてしまうと考えたためである。言い換えれば、彼女は、キンケイドとの4日間の愛(キンケイドの言葉を借りれば、「一生に一度の確かな愛」)を永遠なるものにするため、敢えて主婦としての退屈な生活(現実)を選んだことになる。これほどの裏切りがあろうか。

尤も、そのことで、彼女は苦しみ続けたはずだ。真面目で優しい旦那さんに対しては申し訳ない気持ちで一杯だったに違いない。しかし、それは旦那さんも同じだったと思うのだ。

この話を旦那さんの視点で見てみると、あらゆる感傷が消えて、重苦しさだけが残る。

旦那さんは妻の不貞に薄々気づいていながらも咎めることをしなかった。それは愛する妻(アメリカに少なからず憧れを持っていただろう)に退屈な生活を強いてきた負い目があったからだ。

人妻と写真家の真実の愛は、なるほど、文学として映像作品として美しいかもしれないが、そこには表には決して表れぬ人間の苦しみも透けて見える。

そう考えると、まことに罪深い話だ。
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