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座頭市千両首のyoshiのネタバレレビュー・内容・結末

座頭市千両首(1964年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

我が国が誇る時代劇のヒーロー、座頭市。
全作見ているが、そのどれもが面白い。
本作は座頭市入門には、もってこいの作品です。

シリーズのどれか1本挙げるとなると、ファンでも相当迷うと思いますが、多くの人が思い描く「座頭市」のキャラクターイメージが出来上がったのが本作だと、私は思っています。

差別される側の市の悲劇的要素は鳴りを潜め、娯楽に振り切ったエポック・メイキングと言えます。

本作は1964年製作のシリーズの第6作。
初期の市は、盲目ゆえに差別されていました。その市が持っていた卑屈さと、世の中に対する虚無感は消えています。

「ハイハイ、私は目が見えないんで、迷惑かけますよー」と、開き直っている。
市のコミカルな面が強調され、人間的魅力がアップしているのです。

見えないからこそ感じていた世の中の矛盾に憤り、怒りを爆発させるのではなく、目の見える人と同じように、自分の正義や信念に従って行動している。

そして、この辺りから超人的な殺陣を見せるようになりました。

当時の娯楽映画は、上映回数を多くして興収を増やすため時間が短い。
このころTVが普及すると共に、日本映画は次第に斜陽に向かいます。

TVに負けじと、観客が飽きないように、これでもかと言わんばかりに娯楽性が詰め込むようになっていきました。

映画が転換を求められた時期です。
加えて、高度成長期であり、公開年は東京オリンピックイヤー。
厭世観の強かった陰気な座頭市も、世の好景気に釣られ、明るいキャラクターに変化を求められたのでしょう。

この作品から脚本においても座頭市の「定番」が作られたと私は思っています。

座頭市の定番とは?
常に弱き者を守り、味方をする。
盲目を逆手にとった自虐的な笑い。
適度なお色気。
凄腕の強敵。
大人数を一瞬で倒す華麗な殺陣。

これら全てをたった90分程度の中に盛り込むのだから、そのサービス精神たるや、今見ても驚かされます。

細かなストーリーの描写が省かれていたり、不自然なところはありますが、娯楽作に「あり得ない」と突っ込みを入れるのは、それこそ【野暮】というものです。

昔の映画なのだから、現在のように時間をかけた練られたモノではない。
その勢い、当時の映画の「粋」というモノを楽しむべき。
本作も野暮な突っ込みはなしで見て貰いたい。

市(勝新太郎)は、かつて誤って斬ってしまった吉蔵の墓参りをするために板倉村にやってくる。
飢饉の末にようやく上納金千両が集まり、農民は祝宴を挙げていた。

舞台劇のようなタイトルバックの華麗な殺陣で、座頭市の強さを印象づけた後、
冒頭の市は農民たちが祝宴で歌う八木節につられて踊り出す。

強いだけでなく「面白い」ヤツとして市の人の良さが印象づけられ、グッと引き込まれる。

上納金は代官所に運ばれようとするが、そこを三人の浪人が襲う。
農民たちは千両箱を持って逃げるが、そこに五人のヤクザが襲ってくる。

上納金の入った俵は谷底に落ち、五人のヤクザは谷底に行くが、その俵の上には偶然にも市が座っていた。

五人は市に襲いかかるが、たちまち三人が斬られる。
恐れおののいて逃げる二人のヤクザ。
三人の浪人と女馬子で吉蔵の妹のお千代(坪内ミキ子)はその様子を見つめるのであった。

ヤクザは国定忠治(島田正吾)の子分であり、千両を盗んだ一味と疑われた市。
お千代は吉蔵の妹であり、兄を斬った市を許せないから、わざと農民の怒りの矛先を市に向ける。
市は自分と忠治の潔白を晴らすために、忠治の潜伏する赤城山に向かう。

前半は、まるで巻き込まれ型のサスペンスの様相です。

千両箱は国定忠治の貧窮を見かねた子分が良かれと思って奪ったと白状する。
国定忠治は、飢饉から農民を助けた義賊のような存在。
なので子分がしたことは忠治の命令でもなく、本意でないことが分かる。

しかし「子の不始末は、親の不始末」と、市に疑われて怒っていた忠治が、素直に市に詫びて、責任を取るという。

市と忠治のやり取りが、この映画の前半部分のクライマックス。

国定忠治という歴史上の人物を、物語に出す必要があったのか?
…と疑問ではあったのですが、義理人情に厚い、【侠客としての座頭市】の人となりや正義感が押し出されています。

何より高度成長期の映画です。
国定忠治と子分の関係は、現実の世でバリバリ働くモーレツ社員の上司と部下との理想の信頼関係に見える訳です。

「金じゃないんだ。大事なのは心だよ。」と働くお父さんへのエールなのでしょう。

今のコンプライアンスでガチガチに縛られた労働者にとっては、信頼できる人間関係は羨ましい限り…。

国定忠治が、千両箱を返し、農民に詫びる為に下山しようとする。
別の道で市が下山しようとすると、忠治を追う大勢の捕り方とすれ違う。

市が捕り方を引きつけ、御用提灯の薄明かりの中で、繰り広げられる立ち回りが美しい。
撮影を手掛けたのは、黒澤組の宮川一夫。
さすがです。

その後、千両は代官の役人と悪党ヤクザと三人の浪人が結託して、国定忠治の一派を襲い、子分のほとんどを無残に殺して奪っていく。
「親分、逃げて下さい」と叫びながら殺される子分。国定忠治の無念の悔し涙。
「赤城の山も今宵限り」の件の、座頭市版の大胆な解釈が面白い。

その浪人の中にいる仙場十四郎が、今回の強敵。
演じる城健三朗、若き日の若山富三郎は、勝新太郎の実兄。
後半部分は若山と勝の兄弟対決がクライマックスとなるわけです。
この対決が、かなり濃厚です。

浪人や悪党が立ち寄りそうな賭場で独り勝ちする市に、丁半よりもっと面白い博奕をやらないかと言う十四郎。

得意とする鞭で小刀を投げ飛ばします。
「お前の居合と俺の技で争ってみたいんだ」
お互い三十五両ずつ賭けて一文銭を斬る勝負となります。

投げあげられた一文銭を、鞭で飛ばした小刀で天井に突き刺す十四郎。
市は火箸を投げ、一文銭の穴に刺します。
一文銭が火箸を通して下に落ちるのを、市は音を頼りに真っ二つに斬ります。

この居合いは、本当に速い❗️美しい❗️
なぜ、勝新太郎の死後に、座頭市映画がそれほど作られないのか❓
天衣無縫、豪放磊落な勝新太郎に匹敵する人物がいないということも大きいですが、この座頭市の神速の居合いをできる人がいないためでもあると思います。

座頭市の居合いは速いだけでなく、抜刀から納刀までの一連の動作が美しいのです。
しかも逆手持ち❗️真似するのですら難しい。

ただ座頭市が居合いで切って見せる他のシリーズのシーンより、兄弟対決の濃厚な空気の密度も加わる。
瞬き禁止の名シーンです。

勝負に負け、はははと拍手して、アッサリと去っていく十四郎。
兄のプライドが、弟によってズタズタになったように見えます。笑

千両箱を追い、代官所で十四郎に再び会う市。
ここで先の勝負に負けた怨み爆発のセリフがあります。

「俺はミミズが嫌いでな。ミミズはしぶとくてなかなか死なねえんだ」「目が見えねえんだよ、ミミズは。市、貴様を必ずミミズのように切り刻んでやる。てめえを見るとそうしたくなる」

あぁ恐い…。
負けて相当悔しかったに違いない。
若山富三郎のドスの効いた声でのセリフ回しは迫力があります。
身内だから大丈夫と思っているのか、芝居に遠慮がありません。

そして何と言ってもラストの対決シーン。

菩提樹ヶ原で待つ市。
そこに馬に乗って現れた十四郎は、市の首に鞭を巻きつけて、引きずり回す。

勝新太郎の顔のアップが映るので、一部スタントなしで実際に引きずり回しています。
「どうだ、ど盲。貴様の居合いが届くか?ははは」と、今度は鞭を市に叩きつける十四郎。
「このミミズめー!」鞭で顔面がボロボロになっていく座頭市。
兄弟なので、アクションも罵倒の言葉も全く遠慮がありません。

ようやく鞭から逃れ、十四郎を馬からひきずりおろした市は、居合で十四郎を斬ります。
一瞬ですが、2人が背中合わせになります。タイミングを測り、そこから阿吽の呼吸で、エイヤッと殺陣が決まる。
十四郎の太刀筋をすり抜けるように、一瞬で3回も座頭市が斬りつけるのです。

このタイミングも瞬き禁止です。
達人同士の立ち合いは一瞬で決まるという良い見本であります。

こうして兄弟対決はと弟が勝ち、兄の無念はさぞかしとは思いますが、この映画は弟の看板シリーズですから、たとえ兄といえども花を持たせてやるしかない。

日本一濃厚だったこの役者バカ兄弟の対決が見られるこの映画は、やはり面白いと言わざるを得ません。

座頭市が娯楽作品に転換したエポックメイキング作品です。


追記。
諸外国に比べ、かつて我が日本には長期間に渡るシリーズものが数多く存在しました。
そのどれもが似たような話の内容、いわゆる「定番」。

観客は似た話と分かっていながら、ハズレのない安定した娯楽を味わいたかったわけです。

勝新太郎が主演した痛快時代劇「座頭市」もそんな映画シリーズの1つ。
全26作も製作されています。

このレビューを投稿した本日は、即位礼正殿の儀の日。
仕事も休みなので、国民の義務を感じて、TV中継を見ていました。
各国の代表が、来賓として天皇陛下即位をお祝いに来ていました。

そのTV中継を見て、日本の誇れる映画は何かと色々考えていました。
黒澤明、小津安二郎、溝口健二、etc…。

しかし、TV中継は庶民に感想を求める映像を映し出しました。
我々庶民にとって、令和はどんな時代になるのでしょう?
技術の更なる進歩が期待されますが、これだけ価値観が細分化された時代は、激動の時代になることが予想されます。

私たち庶民も逞しくなくては、生きてはいけない。
しかしその根底には義理や人情といった多くの人に共通する、共有できる道徳観がなければ、世の中は味気ない。

今の日本には「定番」が無いような気がします。

天皇陛下は日本の象徴であり、天皇家のその御人柄は揺るぎない日本の道徳観の「定番」です。
清く、正しく、そして美しい。

しかし我々庶民には、やはり雲の上のお方であります…。

我々庶民が、逞しく生きる指針を得よう。
そんなことを思って、庶民的な時代劇のヒーロー「座頭市」を見た次第です。
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