晴れない空の降らない雨

となりのトトロの晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

となりのトトロ(1988年製作の映画)
5.0
■体験させる映画
 喪われた日本の自然風景も子どもたちの芝居もすべてがディテールに富んでいる。カメラは子どもたちに寄り添い、手管を持って出しゃばってくることは殆どない。そうして我々はあたかもサツキやメイになって世界を体験する。いやそれに尽きる話ではない。体験型とかいうと、映像・音響技術の飛躍と共によく言われる「アトラクションとしての映画」が浮かぶが、もちろん本作はそんなものではない。
 
 美術監督は同時上映の『火垂るの墓』に山本二三をとられ、山本が推挙した男鹿和雄が担当している。彼は前年『幼獣都市』の美術監督だったが、もともと自然を描くのが好きで、真逆の作風である本作を喜んで引き受けたらしい。男鹿の貢献なくして本作はありえなかっただろう。そう思うほど、本作の背景は重要である。ここから男鹿とジブリの長い付き合いが始まった。
 
■昼と夜、晴れと雨、メイとサツキ
 映画の序盤から、昼と夜それぞれで異なる世界の表情が描き出される。両者を対比させる狙いがあったのは明白で、そのために夕方は、おばあちゃんを見送るごく短いシーンしか登場しない。昼のシーンは植生を前景に後景にと細かく描き込んでいるが、夜のシーンでは木々のディテールはなくなり、あえてべた塗りされたフォルムが突風で激しく揺れる様をサツキが目撃する。昼はほとんど常に流れていたBGMもこのシーンでは消えている(直前の夕方~台所のシーンでは『風の通り道』のアレンジがかかる)。
 あるいは中盤のシークエンスも、それまでの明るい雰囲気と一線を画している。(まだ晴れているが、)寂しくなったメイがサツキのいる学校へやってきて、一言もいわずに泣き出す。元気なメイも心の底では母がいない寂しさが募っていたことが分かるシーンだ。やはりBGMはかけず、会話も最小限にして雨音を聞かせようとしている。雨宿りする姉妹を見守る地蔵が場面の神秘性を高めている。
 これらの夜や雨のシーンは、監督が語るところの「なにかがいる気がする」感覚を醸成する。その感覚を畏怖と言い換えてもいいだろう。本作が「世界を体験させる」というとき、それは単なる五感にとどまらず、この感覚を呼び起こすことに真の偉大さがある。本作が決してアトラクションないしジェットコースター的な映画ではない所以である。
 そして、こうした夜と雨のシーンの先にサツキとトトロの出会いがある。このシークエンスは昼間のメイの出会いとはまったく趣を異にしており、実際にトトロが現れるまでに、稲荷様の社を見つけたメイが脅えるなど、かなり長い時間をかけている。
 また傘で視界が狭められているサツキの目に映るのは、トトロの長い爪である。一瞬とはいえ、トトロの柔らかくて大きな身体が強調されていたメイの出会いのシーンとは対照的だ。森の主であるトトロの、昼間と異なる側面が垣間見える瞬間になっている。
 以上のように整理してみて分かるように、夜や雨のシーンはサツキが主役である。もともと本作の主役は1人とする予定が姉妹に分かれたのだが、サツキという実年齢以上に成熟した少女がいなければ、本作の夜や雨の静寂は持ち堪えることができなかっただろう。

■死の気配
 本作をめぐり「実はメイとサツキは死んでいて~」というネット怪談が一頃流行した。誰も信じていないにもかかわらず何故この話が有名になったかといえば、雨と夜の静寂が半分を支配する本作が、それほどまでに死の気配を漂わせているからに他ならない。
 夜のトトロとの出会いがもたらした「不思議で不気味」(サツキの手紙より)な感覚は、高揚感と不安が表裏一体となったものであり、後者は姉妹の心の奥底で母の不在につながっている。
 サツキが泣き出すとき、映画にそぐわないほど生々しい顔を見せている。映画はここからラストにかけ、初めて夕方を描く。日が刻一刻と暮れていく過程を背景の変化で描くという離れ業だ。ここで、日没はメイ発見のタイムリミットであり、それは明らかに死のメタファーである。我々が観ているのは、単に優れた背景ではない。サツキの焦燥が投影された背景である。 
 
 こうして見ていくと、映画を通じて我々が味わうのは、単なる古きよき自然や田園の風景でないことがよく分かる。それらには、サツキやメイの心情が投影されている。それは楽しい気持ちかもしれないし、神妙な気持ち、ちょっと怖いという気持ちかもしれない。母親がいない寂しさ、母親を失う恐怖だったり、妹が見つからない焦りでもあるだろう。最後にネコバスに乗るシーンの気持ちよさは、そのまま2人が味わっているものだろう。
 
■1988年、2つの金字塔
 この年、日本のアニメ界に1本の金字塔が誕生する。
 漫画界に革命を起こした大友克洋は、あたかも宮崎駿を反復するかのごときムーブで自分自身の漫画『AKIRA』を原作にアニメーション映画監督を務め(アニメ進出自体はもっと前)、和製アニメの質全体を著しく底上げしてしまう。そもそもアニメの大半が漫画を原作とする以上、漫画表現の革命がアニメに波及するのは必然だが、大友自身の進出によって一気に加速した感がある。
 
 ところがジブリは、アニメにとってまさに記念碑的なこの1988年に、真逆と言ってよい作風の『トトロ』を世に送り出した。興行収入は振るわなかったものの当時から激賞され、今ではジブリの金字塔と言ってよい作品である。そして宮崎駿は、連載中の『ナウシカ』を除いて、もはやSFファンタジーに戻ってこなかった(最新作で回帰するのか?)。
 
 『トトロ』からの「ジブリ」と所謂「アニメ」は、もはや別のカテゴリに属すると言ってよいのではないか。実際のところ、ジブリがどれだけ作品をヒットさせようが、「自分たちには関係ない話」というのが大半のアニメ制作者の思いだっただろう。
 そして宮崎の側でも、次第に日本のアニメ界にまったく同じスタンス(「自分とは無関係」)を持つようになったのではないか? この点については『On Your Mark』のレビューで取り上げるつもりだ。