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ルシアンの青春のotomisanのレビュー・感想・評価

ルシアンの青春(1973年製作の映画)
4.1
 青春の中にルシアンを片付けてしまうのはよくない。確かに投げ遣りとみえるほど、ヤクザを気取って若くして死ぬルシアンだが、若気の至るところが死だったと思うなら、この若いだけの虚無家を甘やかしすぎるだろう。
 反共崩れ、没落貴族、商売人、用心棒業、ドイツ警察の下っ引を腑分けしてみても、ここにはルシアンの若気を煽り立てる理想の欠片もない。ルシアンもまた挺身すべき道を欲している様子でもない。ただ、退屈な山里で身を持て余しているのだが、自分の中には目を向けるべき方向を示唆する知識も望みも何もないのだ。
 しかし、将来の夢を紡ごうにも今は流動的な戦時中、敗戦国の中で非正規兵士、レジスタンスに参加するにしても、それはスパイになるのと同じ事、平素の徴兵とは桁違いの難関だ。そうやってあぶれっ放しのルシアンが一番簡単に採用されたのが敵方の間者だった。ほんとうはこんな若者あり得たんだろうか?なんとなく'73年的、というより、'68年以後の若者の投影があるような気もするが、ならばそれこそ監督の意図するところなんだろう。
 30年隔てて「今」の若者がルシアンならこの時代をどう生きる?描かれるべき人物像とその行く末、なにを見せてくれるかといったら、これだろう。ウサギ相手からフランス愛国者相手へとドイツ的合法下で獲物が切り替わったということだ。

 利敵に走るのも行きがかりなだけ。この映画を見たら、戦争に負けるとはこういう事だと痛烈に受け止めるべきだろう。ルシアン個人を巡る何事かとは別な、さらに半世紀経った「今」だからこそ目が向けられる"日本版"の戦争に負けてどうなる、という事だ。
 それは、ドイツに迎合する政権の下でドイツ警察の下っ引を働くフランス人の面々のギャングもどきな様子を近い将来の日本のようなつもりで想像し頭の中で重ね合わせてみるという事だ。
 米軍が頼りになるのか、自衛隊が持ちこたえるのか、そんな事は分からない。だが、それ以前に国内での地上戦を想像してどれほどの人が今ウクライナで起きているようなありさまを自分の生活現場と重ね合わせる事に耐えられるだろう。ちなみに「世界価値観調査」で「国のためにたたかう」事を支持するのは13%、「たたかわない」は48%、「分からない」が38%だ。
 しかし交戦を止め、ひとたび敵軍の進駐を許せば、今度は映画のフランスのように民政移管されても、きっと合法的に身辺を調べられ、日本のばあい発足するかどうかも分からない地下組織への疑念を理由に拘引され、なんなら消されてしまう。全ては進駐軍の都合、もしくはその下っ引の日本人組織の都合である。だがそれ以上に、手下の日本人がルシアンのようにヤクザの構成員のような調子で肩で風を切って見せるようになるのだ。この映画でもほとんど姿を見ないが藪っ蚊に苛まれるレジスタンスと表通りを恐いもの知らずに練り歩くタダ酒のみ放題なルシアンと、なるならどっちがいいだろう。

 ついでにいえば、ルシアンがそうかは知らないが、ろくでもない親兄弟、ろくでもない隣近所、ろくでもない教師や生徒、同級生、学校しか覚えのない者たちが「戦前」の日本のろくでもない残骸どもを痛めつけるチャンスに飛びつかないといえるだろうか?日本は周辺諸国に比べそんなに立派なものだろうか?
 行きがかり上ドイツの手先になっただけのルシアンだが協力初日から成果を挙げて、見送る獲物の教師、ルシアンの「恩師」」がろくでもない人間でないにせよ、ルシアンにとっては生きようと死のうと実は「どうでもいい人間」であったことは間違いないだろう。
 それ以降、最後のひと夏の間、唯一「どうでもよくない」仕立て屋の娘フランスを巡ってあれこれするルシアンのチンピラぶりのションベン臭さには頭を抱えてしまう。だから、夏の終わり、じきにドイツ軍から置いてきぼりを食わされるのも薄々承知な中、ドイツからもフランスからも逃げ延びた3人が過ごす束の間のキャンプで、始めからこれでもよかったんじゃないか、あの修羅場を歩む理由がどこにあったのかと、それまでの半年が不思議な気すらしてくるのだ。
 だがしかし、あの元の山の村での、住まいさえ維持できない一家離散の暮らしから、共に生きるフランスに巡り合う事もなしに直接この天国に至ることはあり得ない。
 敵側に就いたルシアンのあの賽は投げられたという感じの日々の銃撃の先には知った顔もいるかも知れないのを無感動に掃討する。愛国者の摘発も、国を愛する謂れが知れねえとすら思うのだろうか。あのおもしろくもなく、どうでもよさ気な様子だが、明日死ぬ見込みぐらいの切迫感はあるだろうが連合国軍政下で死ぬなんて想像つくのか。

 ドイツ警察に引っ張られた時と同じように、いま俺がすべきことに従って同伴者フランスらと逃げた先、来たるべき冬と対独協力者追及を避けてあのまま生き延びることもあり得ない。見上げた空にきっとそんなことが去来するのだ。そこには若気の至りなんて年寄りの甘やかしなど掛ける余地もない。人生最後のキャンプで一家3人ウサギ撃ちでは養いきれない元の暮らしに戻って、生きる力の使い間違いを思うのだろう。日本のルシアン達ならこの場面をどう演じるか。
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