新潟の映画野郎らりほう

マザーウォーターの新潟の映画野郎らりほうのレビュー・感想・評価

マザーウォーター(2010年製作の映画)
3.0
【0.5映画~考える[場]としての映画】


ストーリーらしきものなし。 テーマの明確な訴求もなし。
あるのは 牛乳を飲むもたいまさこや 豆腐を喰らうもたいまさこの なんと飲み終るまで 喰い終るまでを延々映し続けたフィックスワンカットの画があるのみだ。
つまりストーリーやテーマの明確な提示を 映画の第一義に求めていると この作品は『退屈この上ない』とゆう事だ。

フィックスで捉えられた画面は当然の如く躍動感などとは無縁であるし、長めのワンカットと淡々とした展開 -否、展開すら無い展開(!)- は観客の眠気を大いに助長する事だろう。
『みんなあんな風になっちゃうのよね~』~川辺の椅子でウトウトしている加瀬を見て もたいがそんな事を言う。 つまりそれは この映画の観客も強い眠気にさらされる事となる隠喩であり これが眠気・退屈は承知の確信犯的意図であるとゆう事だ。

これはストーリーやテーマを映画が与えてくれる類いの作品ではない。 観客各々が それぞれ「己のテーマ」を映画に持ち込み、当て嵌める事によって初めて形となる「観客主体内省型」の映画だ。
小泉や小林が 何かを考える為に、見つめ直す為に、或いは休息の為に、どこか別の地から 一時的にこの地を訪れた様に、私達も約「二時間の時」を過ごす為にこの地-映画-を訪れる。
スペースに十分な空きのある画面構成は[私]を当て嵌めるのにぴったりの空間であり、たっぷりととられた間は 自分自身について考える時間をたっぷりと与えてくれる。
登場人物の会話が総じて漠然的であるのは、テーマやストーリーを押し付けるのではなく 観客が主体的思考をする[きっかけ]となる為であり、主要人物間の会話場面の多くに 幼児が配されているのも 観客の目を幼児に向けさせて 必要以上にこの意味の無い会話に捕らわれ過ぎる事への回避的措置に他ならない。

映画を見て その映画の事を考えるのではなく 自分自身の事を考える。 上映中 仮に10分ないし20分うたた寝をしていようとも 何らの影響もない。 … 本来この様な映画は本末転倒なのかもしれない。
でも 少なくとも私には必要な映画だった。

一時の、考える場としての、この「0.5映画」が。




《劇場観賞》