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月を追いかけてのotomisanのレビュー・感想・評価

月を追いかけて(1984年製作の映画)
4.2
 出ていく汽車を追いかけてショーンとケイジがデッキに飛び移る。ほんの十年前ならどうだろう。恐慌の余韻のもと、飛び乗った汽車に行方を任せて暮らせる土地を目指しただろうか。1943年、二人の行く先はもう二人には決められない。
 入営まで6週間というのにわたくし事ばかりで、陛下の赤子の裔なる我が身には彼らが五分で戦死する様が思い浮かんでしまう。彼らのこの6週間は「アメリカン・グラフィティ」と変わるところが無いのだ。もちろん流れに負けてうかうか見てればの話。仔細を穿てばそうたやすいはなしではない。
 うっかりすると青春の輝きのような魅力を覚えるのかも知れないが、なんの、全て生きてる間の彼らなりの人生総仕上げ。働いて恋して子までつくって、それを堕して、いつも飲んだくれて、ろくに家にも寄り付かず金のため余所者帰休海兵相手のビリヤードペテンではボロを出し、たまの親の手伝いは知り合いの戦死者の墓穴掘りだったりする。
 同じ西海岸でもLAの乱痴気は「1941」でも知れたところだが、サンフランシスコの北の岬は貧乏青年らに暗く侘しい。男の責任で女の堕胎を見届けて迎える出立に最前までのすったもんだの影は微塵もないものの、大人たちの知らぬ間に良くも悪くもすることをし尽して汽車の尻に向かって駆け出す二人がブッチとサンダンスの最期と重なってしまった。思わず、いつかショーンの親父さんが掘る墓穴の人となる日が来るのか?と、知った事では無いけれど。
 「聞けわだつみのこえ」の清廉さ真率ぶりを知れば何事ぞととも思うが、それでも時日を違えず出てゆく二人がいづれ金門をくぐってささやかなミューア岬を眺める時、そこから眺め返す人のまたありやを思うだろうか。ほんの十何年前、連邦の何の用があろうかという荒れ果てを目にし、今は自由のためなのか正義のためなのか全てが合衆国にまとまる様変わりに、もう新世界なんて言ってられないアメリカの行き詰まりのはじめの終わりを見るよな息苦しさを感じる、ちょっぴりもの悲しい門出だった。
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