優しいアロエ

怒りの日の優しいアロエのレビュー・感想・評価

怒りの日(1943年製作の映画)
4.2
〈キリスト教社会の孕む欺瞞と、人間の奥底に眠る悍ましさ〉

 舞台は17世紀半ば。あるデンマークの村では魔女狩りが盛んであった。呪いを行使した・異端者であるといった理由で女性を審問しては、火刑に処していく。そこから窺えるのは、「キリスト教社会の男性優位・女性蔑視的な本性」そして「一部を駆逐することで宗教の正統性を高めようとする愚かな姿」だろう。男性の牧師たちが裸の老婦を囲んで糾弾するさまからミソジニックなものを想起しないことは難しく、また彼らは宗教の権威を維持することに躍起になっているようにも見える。こうしたカトリックの歪んだ厳格さは、ドライヤーの代表作『裁かるるジャンヌ』とも符合する。

 さて、本作の主人公アンネもまたそんな宗教社会の犠牲者と云える。老年の牧師の若妻として暮らしているが、どうやら不本意に娶られたらしい。ここからも男性優位的な常識が社会にまかり通っていることがわかる。そんなアンネの内心では夫への嫌悪と従順さが混在している。魔女とみなされた老婦を彼女が匿うシーンがあるが、ここは牧師の夫への反抗心と切り離すことができないだろう。

 だが、そんなアンネに二つの転機が訪れる。一つは、夫と前妻の間の息子マーチンが帰還すること。アンネはこれまでの束縛を拒むかのようにマーチンと禁断の恋に堕ちていく。陰影の強い室内を主な舞台とし、厳粛とした様相を呈している本作だが、ときおり野原や川辺へと場面が移ってはアンネの情事が描かれる。自然のもつ解放感が、厳かな人間社会の対比として用いられているのだろう。

 もう一つの転機は、母親が魔女の疑いで審問にかけられたと知ることだ。ここからアンネは自身の隠された本質を意識していくとともに、魔女の免罪と断罪を便宜的な理由(ex:惚れた女の母親だから助けた?)から使い分ける宗教の欺瞞を再確認するに至る。こうして宗教への不信と夫への不信は重なり、その反抗たるマーチンとの情事は一層加速していく。

 そして最後は、『VVitch』のような帰結を迎える。アンネは本当に魔女だったのか。それとも、偶然夫が死んだことから自身を「魔女」だと思い込んでしまったのか。もし彼女が本当に魔女であるならば、キリスト教社会の暴虐な行為は的を射たものとなり、ある程度の正当性を帯びることになってしまう。つまり本作は宗教への批判を目的としていないのではないか。ラストを曖昧なものにすることで、宗教へも魔女へも肩を持たない立場にとどめている。
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