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不貞の女のsleepyのレビュー・感想・評価

不貞の女(1968年製作の映画)
4.6
映画がFinを迎えても ****





原題:La Femme Infidèle, 英題:Unfaithful Wife, 1968年、仏=伊、カラー、98分、クロード・シャブロル監督。

うますぎる。でも瑞々しい。表現手法に意味がある。役者が語らずカメラが語る。セリフが映画を前に進めず、感情を語らず、行動が映画を進め、心理を匂わせる。妻の不貞を確信した中年男シャルル(ブーケ)は妻エレーヌ(オードラン)の不倫相手(ネロ)に会いに行くが、これが思わぬところへ夫婦を運ぶ。

こういった犯罪ものでは、いかに犯行・犯人が露呈するか、というスリルや(1か所そういうところがあるが。シャブロルはこれをやらせてもうまい)、人間描写とは無縁の単なるエキセントリックさや、安易なサプライズに重きを置き勝ち。本作では、彼ら彼女らが次に何をするか、どう振る舞うか、リアクションするか、が息苦しいサスペンスを生んでいる。

この映画のキーワードの1つが「秘密」だ。仮面夫婦はミッシング・ピースという「秘密」を2人それぞれ持っている(2人の間の男の子がジグソーパズルをやっているのが印象的だ。「ピースが足りない。パパ、隠してるでしょ」、と怒るシーンは監督が意識して描いたエピソードと思う)。

そして芝居のさりげなさにも唸る。そしてたいていこちらの予想を裏切る。いたたまれなさ、抑圧された情けない(しかし最後は違った)夫役のミシェル・ブーケは、「不貞の女」という題名にもかかわらず本作の肝と思う。平静を装う小市民的な男の爆発と想いの深さ。

そして妻のオードランの女心の変遷と芯の強さ。2人とも素晴らしい。情事の相手のネロは出番は少ないが、監督の意地悪を体現する役廻りだろう。子役も刑事も自然だ。

ネガティヴなラストとみるかポジティヴなラストとみるか、分かれるだろう。個人的には後者。静かな画面の裏に、皆の瞳に、背中に歪んだ情念が流れている。見えないが確かに存在が感じられる。しかしラスト10分はいわば仮面夫婦だった2人が、真に感情を通わせる。ここでも感情はセリフでは語られず、行動と視線が、表情が多くを語っている。

ブルジョア家庭の危うさへの皮肉を扱うが、この部分には、お得意の「登場人物への意地悪」は感じなかった。これは夫婦の破滅・終焉なのか。いつも登場人物を翻弄する監督だが、最後では2人を見る視線に珍しく温かみさえ感じた。先にミッシング・ピースのことを書いたが、真情という、隠していたピースを差し出したこのシーンは、夫婦というジグソーパズルが完成した場面でもあるのだろう。

しかし殺人を契機に仮面をはずした夫婦の内面の移ろい、予期せぬ共犯関係と、急速に1つになる沈黙の絆というのは、観方を変えればやはり人心の歪みを描いた倒錯的展開とも言える。夫婦であるという共犯。ここに至り、それまでの画面の裏の情念がこちらに静かに流れ出し、陶然とさせられる。

監督の描くのは事件のミステリーではない。男と女が、夫婦が、人間がミステリーだと言っているようだ。シャブロルはトリュフォー、ゴダール、ロメールらと並んで、ヌーベルヴァーグから出発したかも知れないが、この頃から(?)別の道を選んだのかもしれない。人の負の情念の不可思議さに焦点を絞り始めた気もする。

不協和音を奏でる、ピエール・ジャンセンのピアノ中心の静謐なスコア。そして極限近くまでソリッドなジャン・ラビエの撮影、ともに良い(どちらもこの時期のシャブロルとの名トリオ)。華麗なるカメラワークではないが切り詰めたショットの処理には唸る。

シャブロルの他作品のように、極めて簡素な設定と、簡潔な語り口だ。矛盾する表現だが(いや、だからこそか)、濃密な映画だった。画面から注意をそらすことが難しい。映画テクの定石は知らないが、カットを割るべきところは割る、そうでないところは割らない。移動撮影やパンすべきところはする、そうすべきでないところではしない。こんなことを確信をもって撮っている気がする。「なんとなく」はない。シャブロルは自らホンも書く。わかっているのだろう。「ここはこうしないといけない」、と。

いかにシンプルに余白をもって撮るか。シャブロルは映画がFinを迎えても、なお懐に何かを隠し持っているようだ。

★オリジナルデータ
La Femme Infidèle, 英題:The Unfaithful Wife, 1968,FR=Italy, オリジナルアスペクト比(もちろん劇場上映時比を指す)1.66:1, 98min, Color(Eastmancolor), Mono, ネガ、ポジとも35mm
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