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SOMEWHEREのkuuのレビュー・感想・評価

SOMEWHERE(2010年製作の映画)
3.7
『SOMEWHERE』
原題 Somewhere  映倫区分 G
製作年 2010年。上映時間 98分。
劇場公開日 2011年4月2日。
ソフィア・コッポラ監督が、父フランシス・フォード・コッポラとの思い出や、2児の母となった自らの経験を投影して製作。
第67回ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。
米ロサンゼルスにあるスター御用達の有名ホテルを舞台に、派手なセレブライフをおくる映画スターのジョニー・マルコが、離婚した妻のもとで育った11歳の娘と再会し、人生を見つめ直す姿を描く。
ソフィア・コッポラはスティーヴン・ドーフを念頭にジョニー・マルコの役を書きました

映画スターのジョニー・マルコは、華やかな生活を送り ながら強い空虚感を覚えていた。
そんなある日、前妻と 同居する11歳の娘・クレオの面倒を見ることになる。
やがて映画賞の授賞式のため、ジョニーはクレオとイタリアへ向かうことになるのだが。。。

ガキの頃のソフィア・コッポラの人生は厳しいものやったに違いない。
父ちゃんが監督した『ゴッドファーザー』(フランシス・フォード・コッポラ監督、1972年)にカルロとコニーの息子、赤ん坊役でクレジットされずに出演して以来、脚光を浴びるようになった彼女の背中には、名声が宝石をちりばめた重い荷物のようにのしかかっている。
それ以来、高い評価を得ている『ロスト・イン・トランスレーション』(2003年)では、年上の男性(彼女の父、フランシスの姿と不可避的につながっている)と無視された年下の女性(彼女自身)との出会いの場が探求され始めている。
日本では、国際的なスーパースターが孤独と疎外感を感じており、美しいスカーレット・ヨハンソンに慰めを見出す。
今作品ではL.A.で孤独と疎外感にさいなまれる国際的スーパースターが、育児放棄された娘、若き日のエル・ファニングに慰めを見出す。
ジョニー・マルコ(スティーヴン・ドーフ)は、欲しいものはいくらでも持っている映画スター。
しかし、冒頭のシーンが暗示するように、豪華なフェラーリでさえ、ただぐるぐる回っているだけでは退屈になってしまう。
ウィスキーの飲み過ぎで、顔の見えないブロンド女の股の間で気絶しているときしか眠れないことが何度も描かれる。
彼は匿名のメールを受け取る。
なぜそんなクソ野郎にならなきゃいけないんだと。
今作品は、浪費のスパイラルについての探求において、楕円的で思索的と云える。
これは、映画界で最も注目されている撮影監督の一人であるハリス・サヴィデスの手腕によるところも大きいんかな。
スローなズームアウト、余韻の残る静止ショット、不気味なシンメトリーの使い方など、すべてがティンセルタウン((金ピカの街』の意、ハリウッドの別名)の太陽、ロリポップ、虹の根底にあるに違いない狂気の感覚を構築するために働いている。
今作品でファニングがクレオ役に抜擢されたのは自然な成り行きのように感じる。
広く知られた妹ダコタと姉妹である彼女は、ここでの環境に精通しているはず。
彼女は『タクシードライバー』(マーティン・スコセッシ監督、1976年)でジョディ・フォスターが演じた10代の娼婦アイリスを思い起こさせてくれた。
このふたつを結びつけるのは、堕落した純真さという同じテーマだ。
父親がホテルの部屋で双子のポールダンサーに眠りを誘われた後、クレオに起こされる。
これは思い切ったカットの選択だが、その後の展開に照らし合わせると、この少女がこの生き方に縛られているという考えを裏付けるものでした。
クレオが、洗練されたバレエダンサーの優雅さと思春期前の少女のぎこちなさをうまく融合させ、グウェン・ステファニーの『クール』に合わせてアイススケートをする、おそらくこの映画の重要なシーンじゃないかな。
父は、あの双子のストリッパーたちに見せたであろう以上に、熱心に見入っている。
流行の音楽(フェニックス・スコア;ジュリアン・カサブランカス;フー・ファイターズ;セバスチャン・テリエ)を多用し、アート映画ファンを疎外する一方で、一見筋書きのないメインストリームを退屈させる。
いくつかの要素は以前のプロジェクトの純粋な複製やろけど、コッポラは若いファニングに託した大胆さ、ハリウッドへの直接的な攻撃(父親の遺産という理由だけであれば)、そして、メインストリームに考えさせようと努力する継続的なプロジェクトに進歩を見出したと主張したいかな。
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