晴れない空の降らない雨

ゲームの規則の晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

ゲームの規則(1939年製作の映画)
4.6
 鑑賞中ムカムカすることこの上ないこの映画は、しかし圧巻の完成度である。脚本の完成度がもたらす人工性すら、本作の狙いに適っている。「雰囲気の醸成」という点で実に巧みで、軽佻浮薄な浮気が繰り広げられる喜劇的表層には、どこまでも苦々しさと不穏さがつきまとう。すべてに無関心な上流階級たちの会話は、ほとんど表面を取り繕うか、空疎なこだわりを見せるかに終始している。それに対する当人らや召使いの反発もそれとなく示されている。
 
 こうした主に会話を使った入念な下準備を経て、終盤の宴会が始まる。このシークエンスにおけるルノワール的「追いかけ」は、なるほど追いかけられる俳優のおどけた様子や身振りはスラップスティック喜劇だが、あの執拗なまでの狩りのシーンが伏線となって、素直にドタバタとして受け取ることなど到底できない。これは本作の恋愛劇の片側、つまり下女リゼットを中心とする三角関係の頂点をなす。もう片側、つまり伯爵夫人クリスチーヌをめぐる四角関係では、これまたチャップリンを思わせる肉弾戦が繰り広げられるのだが、やはり我々はハラハラと見守らざるを得ない。こうした2つの浮気話がぶつかって最後の悲劇をもたらす構成は完璧というほかない。
 このラストはまさしく、上流階級の虚飾に満ちたロール・プレイング・ゲームにうんざりしているクリスチーヌ夫人の脱出の企ての失敗である。下手人をかばう伯爵の嘘は、「ゲームの規則」が支配する彼らの世界をあらためて観る者に印象づける。演技と現実をめぐる関係については『黄金の馬車』のような作品で本格的に検討されるのだが、本作におけるルノワールの考えはおそらく「我々はつねに何らかの地位や役割を演じている」というものだろう。「社会生活というゲームから逃れることはできない」という苦い寓話として本作を観ることも可能だろう。
 
 しかし、そういうメッセージを読み取ることよりも、チェイスと殴り合いでクライマックスを迎える宴会のシークエンスそれ自体のほうがずっと興味深い。画面に多数の男女を入り乱れさせるルノワールのテクが光りに光っている。ルノワールは、ディープフォーカスによって画面の左右・前後のどこにいる人間にも焦点をあてる。さらに彼らはフレームを慌ただしく出入りするのだが、それによっていわばフレームは拡張される。つまり、我々はフレームの外を意識せざるを得なくなるのだ。さらにオフスクリーン音のふんだんな活用によっても、フレーム外への想像力は刺激される。また、この時点で我々はおそらく登場人物のほとんど誰にも共感できていないので、目の前の喜劇的狂騒がほとんどシームレスに暴力的なものへと変容する様を醒めた目で眺めることを余儀なくされる。
 
 ルノワール本人が扮するオクターヴの「この世界には恐ろしいことがひとつある。すべての人間の言い分が正しいということだ」という言葉は、本作きっての名台詞として知られる。