晴れない空の降らない雨

インターステラーの晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

インターステラー(2014年製作の映画)
4.6
 ハリウッドの大作映画に求められるアトラクション性を十分以上に満たしつつ、ここまでのキャリアで築いてきた監督自身の作家性を最大限に展開している。ただ、例によって肝心のヤマ場になるほどモッサリしているし、スコアに頼りすぎている側面もある。
 
■個人的動機は善
 科学的考証の厳密性があれほど強調されたにもかかわらず、かなり寓意の強い作品である。それを優先した結果、本作の合理主義的なハードSFの外観を破壊している。改めて観ると、なかなか異様なストーリーである。だから皮肉にも、親子愛!感動!を前面に押し出した日本のマーケティングのほうが、よほど本作の本質を捉えているのだった。
 まず目に付くのが、アメリアがエドマンズのいる星に行くことを提案するシーンだ。エドマンズが自分の恋人であることを指摘された彼女は、そのことを認めながら、あろうことか決断におけるファクターとして「愛」をもちだす。そして、彼女の主張が正しかったことが映画のラストで明かされるのだが、もちろんそうなる必然性はない。
 ここでクーパーは彼女の提案を却下し、「より合理的にみえる」惑星を選択するが、結果的には自分たちを最悪の危機に追いやることになる。しかしその前に、クーパーが宇宙船のパイロットに戻ったとき、「人類を救う」という大義とは別に、個人的動機(楽しみ)が働いていたことは明らかだ(ここではクーパーがアメリアの立場で父親と口論している)。このことは、マーフとの痛ましい別れからのジャンプカットで(つまり観客からみて「その直後に」)、船内でTARSと軽口を叩くことでも強調されている。
 また、クーパーがプランBに何の価値も見いだしていないことも明白である。つまり、彼もまた愛する具体的な他者(子どもたち)を救おうとしているのであって、抽象的な「人類」はそのついでに過ぎない。
 したがって、この男女は同じような姿勢をもっていることがわかる。そして結果の正しさからいって、個人的動機で宇宙に飛び立ったクーパー、そして個人的動機でエドマンズの惑星に行くことを提案したアメリアを、映画は支持しているのである。
 他方、偉大な理論物理学者であるブランド教授やマン博士は、彼らと対比させられるかたちで、プランAが存在しないことを知っており、プランBの実行しか念頭にない。つまり、本作の広報においては科学的考証の正確さがあれほど謳われながら、本作そのものでは科学者たちが批判の対象なのである。もちろん、科学そのものではなく、「科学者的であろうとする態度」である。
 
■騙されないことは悪
 多くのノーランの映画においては、女性が主人公の男性よりも正しい。本作でも、クーパーよりアメリアのほうが正しいわけだが、作中一貫して正しくあり続けるのは、もちろんマーフである。彼女の正しさは、疑わない心からきている。彼女は本棚が発する信号を愚直に読み解き、メッセージを引き出す。それはクーパーに一蹴されるが、のちに彼自身が送ったメッセージであることが判明する。最終的に彼女は、プランAの実現可能性、つまり重力の謎を解明する可能性を信じ続けることによって、人類を救う。
 この信じる力の重要性もまた、劇中で強調されている。序盤、マーフが喧嘩したかどで呼び出されたクーパーに、女教師が話したことを思いだそう。この近未来世界では、人類の月面着陸はデマということにされていた。それはアメリカがソ連を動揺させるための効果的なウソだったというのである。クーパーの表情はこの見解への嫌悪感を示しているが、それは映画も同じであろう。
 しかし、もしこの話が本当だとすれば、それはノーランの映画でしばしば描かれてきた「虚偽の効用」そのものではないだろうか。それは、ブランド教授の「本当はプランBしか存在しないが、飛行士たちを鼓舞するために偽のプランAを用意する」という戦略も同様である。しかし、注意してみれば、こうした「虚偽の効用」それ自体が悪というわけではない。ブランド教授が主張したように、それがなければ宇宙飛行士たちは飛び立たなかったかもしれないからだ。プランAは、虚偽というより理念として輝く。問題は、プランAを信じ抜かないことだったのだ。つまり、ブランド教授は自分自身を騙さなかったから非難されるのである(もっともこれは極めて困難だと思うが)。
 同様に、月面着陸の件も、真偽そのものが問題となっているのでなく、信じようとしない懐疑的な態度こそが悪であると映画は主張している。
 
■愛とループ
 そして本棚の謎が明らかになるクライマックスは、父クーパーの「愛」と、娘マーフの「信じる力」の双方が合わさって成立している。という点からも、本作がこの2つを強調していることは間違いないだろう。2つといっても両者は密につながっており、クーパーがマーフに暗号がとどくと信じたのは、彼がマーフを愛しているからに他ならない(逆もまた然り)。信も愛も同じく、個人的・私的・主観的なバイアスである。ノーランの過去の監督作品にも、こうした個人的な動機の重要性は共通して確認される。
 このクライマックスで思い出されるのは、『インセプション』に出てくる例の階段である。あの階段は、登っている(未来へ向かう)はずが振り出し(過去)に戻っているという意味で、SF的なタイムパラドックスの視覚化である。こうしたループは、『メメント』のレナードにもみられるが、それは彼が不可能なことに挑戦していたからだった。つまり、殺された妻の復讐であり、それは彼の主観的記憶の歪みが生みだした幻想だった。
 では『インセプション』のループは何かというと、もちろん自殺した妻との再会である。夢のなかでモルが繰り返し現れるのは、コブの真の、そして不可能な願望だからである。この作品の場合は、「現実」を司るアリアドネの銃弾によって、ループは暴力的に断ち切られる。しかし、その後彼が戻ってきたと思しき現実の現実性もまた曖昧に描かれる。ラストにおいて重要だとされるのは、コブ自身がそれを現実だと主観的に確信することである。だから彼は、コマ回しの結果を見届けない。彼の関心は子どもたちに移っており、新しい愛が彼に確信をもたらしたことが示される。
 
 そして本作『インターステラー』においても、見てのとおり親子の個人的動機によってループ、つまりタイムパラドックスが成立している。それが人類に奇跡をもたらすが、しかし、愛の対象との再会はここでも不完全にとどまる。クーパーとマーフの再会は最善のかたちとは言いがたいし、もっと悪いことにもう一つのカップルは再会できない。結末は、実現不可能な願望だからこそループが生じることを示唆している。そして実現不可能であっても、それを信じて追い求めることの意義を説く。