新潟の映画野郎らりほう

思い出のマーニーの新潟の映画野郎らりほうのレビュー・感想・評価

思い出のマーニー(2014年製作の映画)
2.5
【残響し続ける無意志的記憶】


否定し続け卑下蔑ろにしていた〈自己〉を 強く真摯に顧見つめる事が、今迄見えなかった 否、見ようとしてこなかった〈他者 -家族- 〉を浮かび上がらせてゆく…。

催眠と覚醒、imprinting -刷り込み- 、プルースト現象、自己対話、無意志的記憶との邂逅。
それらは、社会性獲得と心理的適応へ…。

自己内に他者を見出せば(客観)、他者の中に見えるのは 自己と同義の慈しみ(利他)だろう。




足下遮る雑草と泥濘。躓き。倒れ。暴風雷雨下の突き伏せと、その後訪れる蒼穹。
それらが「コミュニケーション不全に伴う葛藤と焦燥、そしてその解放」の顕現化である事は解るのだが、今一つ胸に響いてこないのは、やはり あからさまで演出が端から見え過ぎる事と、ストーリー及びその演出で描写済みにも拘わらず、尚全てが過度に言説説明される事に依って『能動的に映画に入り込む歓びを奪われ、只々付き合わされただけ』に感じるからか。

私は同監督前作「アリエッティ」に対し『唯それだけの物語と たった一つのやり取りに、様々な情景を喚起し 限り無い簡潔の中に限り無い多面が確かに映る』と、そして『仮にテキストレス・ボイスレスであったとしても変わらずに屹立したであろう[絵と動き]の素晴らしさであり、 同時に それこそが「アニメにとってのディスクール(語るとゆう行為)」である』と絶賛していたのだが、その面影(想い出)は何処へやら…。


劇中何度も〃差し出されるマーニーの手を、触れ、握り、掴む杏奈。
その手と手の触れ合いが 最期にもう一度対照化され映し出される。その感動的情景はやはりショットのみで示されるべきであり、それを説明するボイスオーバーの邪魔具合といったら無い。

そもそもこれは「自身を顧見つめる」「催眠」的側面を有した「無意志的記憶」との「自己対話」ではないのか。
それを(米林の)過度言説説明に依って理解しても、果たしてそれが自己諒解到達と言えるのだろうか。




《劇場観賞》