あなぐらむ

天使のはらわた 赤い淫画のあなぐらむのレビュー・感想・評価

天使のはらわた 赤い淫画(1981年製作の映画)
4.3
1970年代後半(昭和50年代前半)の邦画のあっけらかんと明るい性に比べ、80年代初頭の邦画の性は、女性の社会進出と反比例するかのように内向を強め、豊かさの影に隠れるように一方通行の度合を強めていく。
殆ど接点を持てない村木と名美を繋ぐ淫画=ビニ本(というジャンルが昔はあったの)。泉じゅんがアンニュイでなんとも良い。邦画ファン層でも女性ファンが多い本作は、彼女による所が大きいのではないか。

その泉じゅん扮する「名美」は何不自由ないOL生活の中、一度だけ犯した過ち(ビニ本モデル)から自身を追い込んでしまうのだが、彼女は自分の性をもて余しているかようにも見える。強姦され死んでしまう女高生(あれ可哀想だよね)も、性的には自由に見える。
対して男性である「村木」の、あのしがない一人住まいの様子は、まるで今の男性の窮屈さの原風景のようにも思える。阿部雅彦はこの頃「ピンクのカーテン」シリーズでも不甲斐ない兄を好演していたが、本作の内向的な村木像は、彼ならではのナイーブさが体現されたものだ。

ちゃんと時代性の中でロマンポルノは存在してるのだ。時代風俗を最も敏感に察知して速攻で作られていたのだから。「天使のはらわた」の「赤い教室」と「赤い淫画」の間の断絶を見て欲しい。男性=村木の存在の大いなる違い。
現実の名美ではなく、ビニ本という「二次元」に拘泥する村木は、やがてくる本物の「二次元」の時代を予見させる。男の中にだけいる「女」。妄想の中だけ交接できる相手。そしてお互いの「性」はいつしか面倒なものとなり、概念だけになる。ラスト、偶像でしかなかった名美(泉じゅん)と村木は逢瀬を果たせず時間は凍結する。まるでぶった斬るような幕切れは、観る側の気持も宙ぶらりんな感じにさせる。"バッドエンド"ではなく、宙ぶらりんにしてしまう。

「赤い教室」、「赤い淫画」とも、脚本や完成台本を読んだ事があるんだけど、石井隆自身の筆よりもそれぞれの監督がかなり削っては膨らませて撮っており(脚本は物凄く説明的なのだ)、逆にそれが監督・石井隆を縛ってきた気はずっとしている。映画は監督のもの、の一例であり、ロマンポルノというジャンル映画の特性だ。

本作では、池田敏春が作ろうとした世界を前田米造カメラマンの力量がいかに支えてるいるのかが分かる。この映像世界全体に漂う不穏さと夜のシャープさ、それに反して粘液に拘るエロ描写。こたつの赤と降りしきる雨の蒼のイメージの対比の妙は、映画を観る事の愉しみである。

山科ゆりが脇で出ているがすっかり貫禄が出てしまっていて、それこそがロマンポルノという映画ジャンルの爛熟にも思えるのが興味深い。
池田敏春はこのあと、ディレカンに出て「人魚伝説」を撮る。