マサキシンペイ

戦慄怪奇ファイル コワすぎ! FILE-03 人喰い河童伝説のマサキシンペイのレビュー・感想・評価

3.3
スピルバーグが絶賛した「パラノーマル・アクティビティ」が霞む程の、フェイクドキュメンタリーの演出力。多くの方が言うように、同じ低予算でここまでの映像を作れる監督というのは世界中を見渡しても稀有だと思った。面白い。

あらすじを言えば、血の気の多い工藤Dと陰陽師・鈴木が共闘して河童に立ち向かい、最終的に相撲で決着をつけようという、率直に言って噴飯物だし、実際そのトンデモな設定と展開がバカすぎて笑ってしまうのだが、にもかかわらず完全にドキュメンタリーのリアリティと臨場感で満ちている。

今作の鑑賞を受けて、ドキュメンタリーという手法に関して考えさせられた。全くもって現実味のないチープなシナリオでありながら、この作品は確実にドキュメンタリーに見えるフェイクが成立しているからだ。

一般にドキュメンタリーは、取材対象に演出を加えず事実のままに記録する映像手法であると定義されるであろうが、しかし今作は明らかにこの定義を破壊している。展開自体演出にまみれているのは明らかであるし、かつ鑑賞者にもこの映像が作り物であることを隠そうともしていない。なのにこれはドキュメンタリーに見えるからだ。

したがって今作ではドキュメンタリーの本質が移行している。明らかに取材対象の真贋はほとんど重要ではない。
今作のリアリティを汲んでドキュメンタリーとは何なのかと考えれば、「作品中に、その作品を撮しだすカメラが登場し、かつそのカメラによって、その作品が生まれていることが、その作品の中で描かれていること」としか言い様がない。
つまり、撮される対象の真贋ではなく、その対象を見ている視点(カメラ)が、鑑賞者の視点とシンクロするような演出こそが、映像をドキュメンタリー足らしめている。

特典映像に収録されたインタビューで白石監督が、フェイクドキュメンタリーという手法は、リアリティのあるフィクションを収めるのではなく、ブッ飛んだフィクションにリアリティを持たせるためのものであると語っている。
その効果を与えるのは、紛れもなく作品中に視点が存在し続けている意識だろう。

馬鹿馬鹿しい程のフィクションという「非現実」の恐怖の世界に、鑑賞者の視点を突き落とし縛り付け、その世界の「現実」を体感させることで、作品を「超現実」にまで押し上げることに成功しているのだ。
マサキシンペイ

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