くろみまりこ

レヴェナント:蘇えりし者のくろみまりこのレビュー・感想・評価

レヴェナント:蘇えりし者(2015年製作の映画)
3.8
まだ鑑賞していない人に向けてこれだけは言いたい。それは、『愛は死んだ。憎しみだけが生きている。』という宣伝文句を頭から完全に排除しておくのがおすすめだということ。なぜならまったくといって良いほどトンチンカンなキャッチコピーだから。
この物語における真の"蘇り"は、憎しみによるものでは決してないし、憎しみだけが彼を最終的に生かすわけでもない。映画を観終わってから改めてこのキャッチコピーを見直してみると、「愛」と「憎しみ」の箇所を入れ替えたほうが意外にしっくりきてしまう。

確かに愛する息子は死んだ。そして一度は息子と共に死を迎えようとした主人公グラスがその亡骸から離れ、生きる道を選んだ理由は紛れもなく復讐心によるもの。しかしストーリー終盤で起こる彼にとっての真の"蘇り"は復讐や憎しみを越えた先にあり、そこに到達するまでの物語の背景に描かれていたものは息子への愛に他ならない。だからやっぱりこのキャッチコピーは間違っている。劇中のいったいどの部分を切り取れば「愛は死んだ」と言えるのだろう。【BLOOD LOST. LIFE FOUND.】という文句をこんな間違った翻訳にした日本の担当者は、フィッツジェラルドが如く日本中を追いかけまわされても仕方がない程に重い罪があると感じた。

映画のタイトルにもなっている『レヴェナント』という言葉。今作の面白さは、この単語が持つ"二種類の意味"をまったく異なる性質のものに確立して描いている点にあると思う。
復讐のみを人生の目的とするならば、それはただ死者が彷徨っているのと同じこと。目的が達成されれば成仏してしまうような"亡霊(=revenant)"だ。序盤でフィッツジェラルドへの復讐を誓う主人公はまさに亡霊そのもの。しかしそれはいくら肉体的に復活しようと"蘇り"ではないのだ。イニャリトゥ監督はこのヒュー・グラスという男を、憎しみに翻弄されただ復讐に終わるだけの人物としては描いていない。なぜならグラスは"亡霊=(revenant)"としての復讐を経た先で、もうひとつの意である"蘇った者(=revenant)"として、二度目の誕生を果たすからである。これこそが『蘇りし者』という作品タイトルの本質なのだろう。一つの旅物語の中に登場する二つの"revenant"というのは一見言葉遊びにも見えるが、この二者の性質の見事な描き分けによって、終盤の"蘇り"に対して起こるある種のカタルシスが一層高まっていることは間違いない。
「人間としての新たな生を授かる。もういちど生まれなおす。」というテーマはイニャリトゥ監督作品群の根底に一貫して流れているものである。そしてその"蘇り"への重要なファクターが今作もまた"愛"であるという点も見逃せない。
監督はインタビューにて「復讐の先にあるものを探求したかった」と語っていたが、『レヴェナントを経てレヴェナントと成る』という今作の物語は、監督の描きたいものを作品化するにあたって非常に計算された構造であったように思う。

「復讐の先に何があるのか」
という問題を扱う作品は多々あるが、今作を見て私が思い出したのはKONAMIのホラーゲーム『サイレントヒル3』のワンシーンだ。最愛の父親を殺された主人公が、父を殺した相手への復讐を決意するという物語は『レヴェナント』と多少通じる部分がある。
しかし、ここで展開される「復讐して何になる?!」という問いに対しての主人公の答えは「少なくとも自己満足くらいは生んでくれるでしょう」というもので、あまりのやりきれなさと悲惨さにショックを受けた記憶がある。
今作『レヴェナント』でいちばん衝撃的だったのは、そういった"復讐の先"という議論され尽くされたかのような問題に対して、まったく新しい答えが見出されていたことだった。これは今まで愛や喪失、誕生についてのドラマを描いてきたイニャリトゥ監督の作家性によるものが非常に大きい。絶望的な現実のなかでもどこかに必ず光が差していて、その切り口はいつも斬新だ。『サイレントヒル3』でトラウマを負った私の心が今日、ようやく浮かばれたような気がした。

映像に関してはもう感動を越して驚くばかり。3D映画かと本気で疑うほどの奥行きだけでなく、銃やら熊やら飛び出て見えるので椅子から転げ落ちそうになりました。
映画開始1分内でまずとんでもないショットが連発。この初期加速度は個人的にベルイマンの『第七の封印』以来。
とにかく映画館鑑賞をおすすめしたい一作。