サム

セッションのサムのネタバレレビュー・内容・結末

セッション(2014年製作の映画)
2.0

このレビューはネタバレを含みます

視聴済み前提で書く。ラスト10分は確かに最高だった。全体を通して二人の演技、表情も素晴らしく思ったし、エンディングの入りは完璧すぎて鳥肌がたった。だけどどう考えてもそこまでの脚本がおかしいと思って、それが気になってしょうがなかったということをしばらく、延々と書く。

それは狂気のレッスン部分じゃない。自分が問題に思ったのは最後の舞台までの流れだ。

中盤あたりで、スポーツマンという分かりやすく人気な職についた人から、「音楽の良し悪しなんて評価する人の好みで決まるんだろ?」といった台詞がある。テンポや譜割りに極限の正確性…妥協や曖昧さの欠片もない「完全」を求め、ただしく血の滲む努力を重ねている主人公(とそれを見てる視聴者)にはクソみたいな響きを持つ言葉だ。認められたい、偉大になりたい、その思いで主人公は狂気に踏み込み、クズ野郎として彼女も振る。「完全」を手に入れるため。変貌していく表情ふくめ、この流れは素晴らしい。

なのにあのラストにいたる展開はどうだろう。彼はいったんその狂気を捨て、日常に戻る。そのあと、ひょんなところからもう一度舞台に立つことになり、クズ野郎(ここでは教官)の復讐に絡まれることになるが…そこで主人公は、溜まりに溜まった怒りと「黙って俺の演奏を聴け」という気持ちだけで(物語上)究極の演奏に達してしまう。

ブチまけたようなカタルシスはある。でも「じゃあ今までの狂気の練習は何だったんよ」と思って仕方ない。作中には「大恥をかいた後、一年練習をつんで完璧なソロを演奏した」偉大なミュージシャンが紹介されるが、主人公は大恥をかいた(車事故後の演奏、大衆の前で知らない曲を叩かされた)あと、中盤での狂気を上回る凄まじい練習なんてしていないだろう。事実最後の公演前、彼は正気に戻って昔の彼女に連絡をいれるほど平穏を取り戻している。なのに、なのにそこで、「怒り」や「吹っ切れた」だけで「完全」に到達してしまうのは違和感しかない。ましてあれだけ「テンポガー!」言っておいて、キレて急に完全になんて辿り着ける訳が…今までこの映画で映してきた価値観とは何だったのか。映してきたのは、その場の勢いや気迫だけで到達できるものとは真逆の…例えばパンクとは対極の境地を求めてたんだろうに、これじゃあ…。

ここで「その開き直りがジャズだ!」とか「バンドで演奏する喜び!」みたいな新しい価値観に目覚めるなら分かるが、いったん平穏というブランクを経ておいて、今までの価値観(狂気の練習)の延長にクライマックスを置くもんだから流れがおかしく思えてならない。スーパーサイヤ人ばりのごり押しだ。せめてラスト公演前にまた尋常ならざる修行してました、くらいは映してくれないと納得できない。


また、全編をとおしてドラムと指揮者以外…バンドメンバーがのけ者になり過ぎているのが一番乗り切れなかった。劇中にチャーリー・パーカーやらの名前が挙がっているが、こんな特化した演奏練習でそこにたどり着けるわけなくないかとおもってしょうがない。ドラムにだけ厳しすぎる、ていうか他にも選ぶ曲とかあるでしょうと。

ただそこはこの映画の魅力にも感じた。音楽に、というか数字にできない芸術全般に完全なんてない。あるとしたらそれは前述のスポーツマンが言うような、「個人の好み」つまり「理想」だけだ。主人公と鬼教官は「正確さ」に理想を見た。他のバンドメンバーは知らないが、そこで二人は価値観を共有していた。だからこそ最後、互いが意地汚い復讐を交差させながらも、2人は(少なくとも鬼教官は)「セッション」から心を通わせる。狂気がたぐりよせた価値観の一致があったからだ。演奏としては完全に二人善がりと思うが、ここはとても魅力的なシーンだった。


他にも良い映画だと思う点はいくつもあった。「伝統的なスポ根」じゃないところが良い。飴と鞭で切磋琢磨しながらも、確かに育まれる師弟関係〜なんて要素はない。利害関係のみ。最後の展開の応酬なんて昼ドラのようにネチネチしたものだ。それなのに、同じ理想を描いているというだけで、最後の「セッション」において"のみ"二人が心を通わせる、というのは新鮮な感動があったし、そこで映画を締めたのも最高の幕引きに思った。俳優の演技は言わずもがな。主人公と鬼教官、二人が「我音楽に殉ずる」とかでなく普通にクズなのも新鮮だった。

面白い所が多かっただけに、なぜクライマックス前をああしてしまったのか、というところがもう疑問でならない。2点つけるし、納得は出来ないんだけど、面白い映画かと聞かれたら、確かに「うん」とは答えられるような、そんな映画に思った。
サム

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