ま2だ

グレイテスト・ショーマンのま2だのレビュー・感想・評価

グレイテスト・ショーマン(2017年製作の映画)
4.0
グレイテスト・ショーマン観賞。

俳優・歌・曲いずれも素晴らしい。歌唱中の演出もよく練られている。が、予想通り終始、没入感を妨げられる作品だった。観賞直後は、脚本の薄さや出来の悪さのせいだと思っていたのだが、よくよく考えるとそれはこの作品の忖度のなさとメタ性にあるような気がしている。楽曲の出来の良さとプロモーションで、全体的に他愛のないミュージカル映画としてマスクされているが、なかなか曲者だ。

いわゆるフリーキーな人々を扱っている作品の脚本としては、2017年作としては信じがたいほど表層的な表現や理解に終始していて、差別や偏見という取扱い注意な要素をさばく雑で無頓着な手さばき、特に、偏見に晒されていたサーカスの面々の内面がほぼ描かれることなく、歌と群舞でお手軽に盛り上げようとするMTV的なスタンスに唖然とさせられる。

主題歌である「This Is Me」(名曲だ)を歌唱するキアラ・セトル演じる髭女ルッツが劇中でモブ扱いだったことにも驚きを隠せない。彼女を筆頭にサーカスの面々の描写はゼンデイヤ演じる空中ブランコ女子含め非常に浅薄で、歌唱シーンを盛り上げるカタルシスを醸成しない。
しかし、この映画はSINGでもレ・ミゼラブルでもなく、タイトル通り、グレイテスト・ショーマンを自認する男、P.T.バーナムの伝記映画なのだ。グレイテストなショウの物語でもない。グレイテスト・ショーマンの物語。群像劇ではなく徹頭徹尾、一人の男を追ったストーリーテリングとして見るといろいろ合点が行く。

これはサーカスの面々の物語ではないので、彼らの内面が深堀りされないのは映画として正しい。なぜフリークスたちの出自や葛藤をろくに描かぬまま、安易に主題歌に託すのか?ではなくなぜP.T.バーナムの物語にとって脇役に過ぎないフリークスたちに、主題歌の歌唱が割り当てられているのか?というのが自分が感じる困惑の正体のひとつであった。このねじれがどれほど意図的なものかはわからないが、本作を賛否両論、複雑なものにしている要因のひとつだと思う。

対して本作で最も素晴らしいのはバーナムが米国に招へいしたヨーロッパの人気オペラ歌手、ジェニー・リンドの歌唱シーンだ。なぜならば、劇中でバーナムのセリフとして語られているように彼女の歌こそが本物であり、バーナムは心底彼女の歌唱に感動しているからだ。レベッカ・ファーガソン(歌唱はサラ・マクラクランやレオナ・ルイスタイプの非アメリカ的ディーヴァが充てている)が演じるリンドの自信と不安、それを見守るバーナムのシンクロした感情が歌唱により昇華される、いわゆるミュージカル映画として王道の最良の瞬間だ。
そしてその直後に流れるのが上述した主題歌の「This Is Me」なのだが、こちらは主人公であるバーナムの興味の枠外にあるため、サーカスの面々がいかに怒り、失望し、そこから自らを奮い立たせようとしても劇中でのそれは脇役の振る舞いでしかない。

観賞中には、おいおい、フェイクが本物を越えてみせる話じゃないのかよ、と驚いたのだが、そうではなかった。フェイクと本物の間には冷静にラインを引いていたバーナムのストーリーライン上では、リンドとのワールドツアーこそがハイライトであり、彼女の歌唱が物語上最も輝く舞台を与えられるのは当然のことなのだから。「This Is Me」は楽曲自体は素晴らしいが、劇中では曲の持つテーマ性を発揮できる舞台を与えられていないと感じる。

群像劇ではなく、バーナムの物語であるとみると、演じるヒュー・ジャックマンの千両役者っぷりも際立ってくる。これはもはやグレイテスト・ショーマンを自称するドン・キホーテと、彼に振り回されるその他大勢の映画といってよい。どんなに頭数や華やかな振り付けでごまかそうとも彼が出ているシーンとそうでないシーンの、重みの落差が激しいことにも納得がいく。

ラストでバーナムは極めてドン・キホーテ的(連載位打ち切り的とも言える)にサーカスから離脱するのだが、彼の不在が感じさせるのは、ヒュー・ジャックマンってむっちゃ歌もダンスも上手くてスタイルいいんだな、ってことで、継承者のザック・エフロンをもっと盛り立ててやれよ、と思っていたのだがストーリー上は当然そうなるわけで、サーカスを捨てたとしても主役はバーナムのままでショウは続く、ってことに他ならない。

妻と娘を迎えに行くラストでのバカっぽい振る舞いにしても、そういうこともうしませんって浜辺で嫁に反省してたよね?ってことを平然とやってのけるバーナムのドン・キホーテ性は痛快ですらあり、この男はこの映画の中で幼少時から一切変わらぬイノセンスをキープし続け、この先もフリークスたちと自分たちとの間に、何の悪気もなくナチュラルに線を引いて生きていくんだろうなと思わされるすごみすら感じる。

そしてバーナムの視点そのままに、忖度なくフリークスたちをプレーンな形で登場させることで、この映画自体がフリークショーとして機能しており、本作を観る者もまた、劇中のフリークショウの観客のひとりとして存在させられている、というメタ性に驚かされる。エンタメだから細かいことはいいんだよ、と笑顔で観賞する者、あからさまに眉を顰めるもの、表現の在り方に困惑を隠せない者。

自らが持つ差別や偏見ではなく、差別や偏見をどう感じるかという意識を炙り出される感覚が、きらびやかな楽曲と軽薄に見える脚本の中に埋め込まれたもやもや、揺さぶりの正体であったのだ。

これをただのミュージカル映画としてパッケージングしてみせる手腕もいかにもバーナム・マナーな気がするし、本作が批評家には酷評され、観客からは支持されロングランヒット中、という物語そのままな評価を受けている点も出来すぎだしで、そのどこまでがクリエイターサイドの企み通りなのか興味津々。

特別グレイテストだとは思わないが、個人的には昨年の「哭声」くらいねじれた魅力を持つ作品だと思った。
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