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サウルの息子のchi6cuのレビュー・感想・評価

サウルの息子(2015年製作の映画)
4.0
丁度鑑賞から1か月経つ。しかしいまだに耳の奥に劇中の悲鳴が響いているようで、たまに絶望がぶり返してくる。
今まで数えきれないほど観てきたホロコーストを題材にした映画の中でも群を抜いて辛かった。
おそらく、気持ちが高ぶっている時に観ていたら5分と正気を保てない。

アウシュビッツに収監されたユダヤ人の中から選ばれたゾンダーコマンド。彼らは同胞であるユダヤ人たちをガス室に送り、彼らの死体を処理し、ガス室を掃除し、また別の同胞をガス室に送る。
この仕事により永らえた命は数か月後、抹殺される運命にある。救われる事のないおぞましき生き地獄である。

冒頭、ゾンダーコマンドとして働くサウルをカメラは追う。
カメラは常にサウルにのみピントが合い、彼以外はぼやけて不鮮明である。
何が起きているのか?探ろうとしたときに徐々に周りで悲鳴が上がり始める。子供の泣き声、男の怒鳴り声、祈り続ける女性の囁き。
椅子の上で硬直した。ああ、「始まった」のだ。
この冒頭5分の壮絶な悲鳴と、ガス室を内側から叩くガンガンという音に観客は苦しめられる。
もちろん、サウルたちゾンダーコマンドの絶望と罪の意識、それでもしがみつく生への欲求に必死で気持ちに寄り添わなければ、この映画を観る意味がない。
落ち着けていなければ、感じることを抑制しなければ、見続けられないと劇場内で思った。壮絶な映画体験。
まさに劇場内はアウシュビッツの中。私たちは安全な場所で、しかし何もできずに人々が苦しみ、怒り、死にゆく姿をサウル背中から 見続ける。

大量のユダヤ人死体を処理する中で、サウルはある少年の瀕死体を発見する。
少年はその後医師により絶命させられるが、サウルはその死体が気になる。自分の生き別れた息子に似ている。
殺されたユダヤ人は燃やされてしまう。
ユダヤ教では火葬では魂が蘇ることが出来ないとされている。
サウルは息子の、そして自分の尊厳のために、息子の死体を正しいユダヤ式で埋葬することを願い、死体の奪還に臨む。

映画はこのサウルの「冒険」ともいうべき2日間を追った物語である。
丹念に描かれるサウルのゾンダーコマンドとしての働きは、前述のとおり常に彼以外にピントの合わない映像で、まるでモザイクのように凄惨な場面にフィルターをかけている。
彼をまじまじと追うカメラはせわしなく、常に死と隣り合わせの緊張感で自身の視界さえも狭まっていくようなストレスがある。そして、音。
繰り返される大虐殺と冷酷なナチスの怒号に恐怖しながら必死で物語に食らいつく。

サウルの願望はやがて仲間たちを巻き込み始める。
当初は疎ましく思っていた者でさえ、徐々に彼に協力し、動向を見守るようになってくる。
同じユダヤ人として、同胞を死に追いやり続けた罪、そうしても生きながらえたいと願う罪、それでも同胞の尊厳を願う心がサウルの必死な姿に重なるのか。

サウルは常に考えている。苦虫を噛んだような顔で、考え、動き、そして声なく叫ぶ。
すべてをなげうってでも息子の死体を正しく葬るために彼は全てを捧げて努力を惜しまない。
その努力は多くの悲劇を生み、しかしどこかで希望を生み、事態は思いもよらない展開に発展する。
戦争と言う狂気の中で、人が人を支配し、 侮辱し、殺し続ける世界の中で、このサウルの冒険が生み出すものは絶望の果ての本当にわずかなわずかな美しい輝きに思えてくる。

この映画に幸福は一旦もない。
全てが残酷で悲しく悲劇しかない。
もちろん、ラストもハッピーエンドには程遠い。
しかし、なぜか。
なぜだかどこか救われる。
いや、安堵したのかもしれない。
ラストシーンでサウルが見せる表情に、生きる事の最終的な意味合いを感じずにはいられない。
尊厳とは、人生の救いとは、結局自身がいかに行動したかなのではないか。

鑑賞後、観客は誰一人として口を利かずに席を立つ。
その時にはたと気づく。
自分は、あの世界に、恐怖に、悲鳴に、慣れてしまったことに。序盤であそこまで恐怖した悲鳴のなか、中盤からはサウルの行動に注視していた自分に気づき、あの狂気の世界にすっかり慣れてしまった自分を知って、心の底から絶望した。
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