磔刑

ノクターナル・アニマルズの磔刑のレビュー・感想・評価

ノクターナル・アニマルズ(2016年製作の映画)
3.7
「絵の具とキャンバスと金の額縁」

滑稽に踊り狂う醜悪な裸婦を崇高で高尚な芸術品として扱うオープニングシーン。スーザンが過去に買った絵画の存在を忘れ、描いてある言葉の意味すら理解していない場面等は芸術を投機的な価値でしか判断せず、“さも芸術品の価値を理解している風に振る舞う己の姿に陶酔しているだけ”でしかない美術商の愚かしさを象徴しており、それは多分に映画批評家への皮肉が込められていると感じた。
それゆえスーザン(エイミー・アダムス)は投機的価値がないと判断したエドワード(ジェイク・ジレンホール)を容易く切り捨てるし、若さという投機的価値のあるハットン(アーミー・ハマー)に尻軽く乗り換える。しかしハットンもまた彼からすれば年老いて未来が先細りし、女としての価値が崩れたスーザンを容易く裏切る。

しかし、それに反しスーザンが無価値と切り捨てたエドワードはスーザンに捨てられた辛い過去、20年の歳月を見事に芸術に昇華した。
そしてそれこそが“積み重ねた歳月を芸術に昇華できる”芸術家と暴利を貪り、奢侈を尽くし、時間を浪費するだけの批評家との決定的な違いなのだ。それをまざまざと見せ付けられたスーザンは作品に惹きつけられるのと同時に、忘れていたが故に断ち切れずにいた自責の念が蘇り、過去に縋り付き、作品に啓蒙しエドワードと再び会うことを懇願する。が、その愚かしい行為こそ自分の存在を自己完結できる芸術家と違い、他人の創ったものに依存する事でしか己の存在を示せないにも関わらず、是が非を選択する決定権を持つ批評家の矛盾、滑稽さ、傲慢さを裏付けている。
そしてエドワードが現れなかった事でスーザンの存在もまた彼女が嬉々として派手に飾り付けただけで価値の無い醜悪な裸婦。なりたくなかった皮肉と打算でしか物事を見れない芸術とは程遠い母親と同じであり、エドワードと別れた後も真紅のソファーの上に横たわり続け、腐敗した自らの20年を思い知り呆然とするのだ。

小説はエドワードとスーザンの関係性の比喩であり、その中でもボビー(マイケル・シャノン)はエドワードの復讐心そのものだ。こっ酷く振られた相手に対し、振られた時より大きくなった自分の姿を見せつけ見返す。更には“自分から見て相対的に小さくなった相手を気付かないフリ”をして復讐するのはエドワードの立場が理解できる人なら憧れるシチュエーションだろう。
エドワードの復讐劇についてウキウキで語る監督の姿見ると今作のストーリーは客観的な目線で作られたのもではなく監督=エドワードなのだと感じる。なのでヴェネツィア国際映画祭で審査員大賞を受賞した事は正しくこのシチュエーションに該当し、内心高笑いが止まらないのではないかと思う。

その反面、監督も只の復讐劇ではなく傲慢で高飛車な人間にお灸を据え、気づきを与えるキッカケになれば良いなんて言ってるが、それこそ勝者と成り復讐を果たしたからこそ言える詭弁でしかない。理由や発端はともかく復讐という行為自体は正当化できるものではない。
逆にエドワードの行動が只の復讐ではなく残された愛情って捉え方もあるかもしれないが、それはそれでかなりスーザン側に寄った願望に近い歪んだ考え方だと思う。利己的で打算でしか物事を見れない人物だからこそ、この仕打ちを受けているのであって、それを“愛の鞭”って受け取る発想こそエドワードや観客が嫌悪する要素だ。そしてそのポジティブ過ぎる発想をすること自体、人間性の根本に変化が無かったのではないかとすら思える。

結局は同じ罪(スーザンはエドワードを捨てた事、エドワードはスーザンに復讐をした事)を犯してはいるが、罪と同時に生まれる罰が後か先かの違いでしか無いのかも知れない。
磔刑

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