新潟の映画野郎らりほう

君の名は。の新潟の映画野郎らりほうのレビュー・感想・評価

君の名は。(2016年製作の映画)
3.5
【私の名は】


三葉の胸を揉み拉く瀧。胸を揉む手は男として揉んでいた筈だが、では揉まれていた胸はどうだったか- 女として男の愛撫を受けていなかったか-。
宮藤官九郎「中学生円山」に於いて、自身の陰茎を自分自身で口淫せんと奮闘する少年に対し、過去同行為達成経験者:草なぎ剛が語る-『その時 人格が分裂した』と-。『嘗められている陰茎は男だが、陰茎を嘗めている口唇は女だから』と-。
「中学生円山」を例に出すまでもなく、自慰とは 自己と対なす異性を想像し自己内に発現させる行為であり、本来的に〈自己分裂/解離的〉因子を強く有している。況してやそれが映画のモチーフともなれば尚の事だろう。

ヴァン サントやアロノフスキーが、それぞれ「サイコ」「ブラックスワン」に於いて 手淫/自慰を、御丁寧に -したたかに- 直截表現したのは その証左にほかなるまい。

従って「入れ替わってるぅ??」ではなく「解離している」のである(入れ替わりを完全に否定するものではない、ついては再後述する)。


万人周知巨大事象に関わらず、記憶が欠損している瀧。時間/意識/身体感覚の著しい欠落-。
psychological traumaに依って解離した人格は、然し(心理学的)自己確認/自我形成行為である“自慰”に依って 認識/接近、そして邂逅を果たす-。
マンゴールド「アイデンティティ」の如き構造を見せながらも、本作はその事を主題とせず あくまで作品構造/メタファーに留める。その事が本作を普遍たらしめる。


この作家がこれまで繰り返し描いてきた“半人前”な少年の恋愛への憧憬。
それは、自慰/解離性同一性障害等因子を透過化した今作に於いて『半人前の少年が、理想自己の具現たる恋愛対象 -則ち自身の片影- を追い求めた末、遂に統合し〈一人前〉となる』-ビルドゥングスロマン(自己形成の物語)こそを、今までずっと描き続けていたのだと改めて気付かされた。


鏡への正対やカルデラ上のシンメトリー構図。そして、他者の名を問う事が 他ならぬ自身の名を再認識する事となるタイトル主題系等、同一性/解離性示唆する各モチーフの精良。
それら奥深い深層心理因子を、平易簡便なボーイミーツガールの体裁にパッケージングする広範な訴求力(商業性)も侮れない。




《劇場観賞》