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パターソンのkuuのレビュー・感想・評価

パターソン(2016年製作の映画)
4.2
『パターソン』
原題Paterson.
映倫区分G.
製作年2016年。上映時間118分。

ジム・ジャームッシュが『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』以来4年ぶりに手がけた長編劇映画で、アダム・ドライバー扮する(ドライバーだけに?)バス運転手パターソンの何気ない日常を切り取った人間ドラマ。
『ミステリー・トレイン』でもジャームッシュ監督と組んだ永瀬正敏が、作品のラストでパターソンと出会う日本人詩人役を演じた。
作中の詩は、ジム・ジャームッシュのお気に入りの現代詩人の1人であるロン・パジェットからのもので、映画の詩を書くことに同意し、ジャームッシュは彼の既存の詩のいくつかを使用した。
また、少女がパターソンに読んだ詩は、監督のジム・ジャームッシュが詠んだものだそうです。

ニュージャージー州パターソン市で暮らすバス運転手のパターソン。
朝起きると妻ローラにキスをしてからバスを走らせ、帰宅後には愛犬マービンと散歩へ行ってバーで1杯だけビールを飲む。単調な毎日に見えるが、詩人でもある彼の目にはありふれた日常のすべてが美しく見え、周囲の人々との交流はかけがえのない時間だ。
そんな彼が過ごす7日間を、ジャームッシュ監督ならではの絶妙な間と飄々とした語り口で描く。

今作品の主人公にとってある悲しい出来事は小生も子供の頃に同じような経験をしてるし(主人公は犬だけど小生は母)、主人公の悲しみにとても共感できたかな。
永瀬正敏が沈むパターソンに『白紙に広がる可能性』と云うギフトをする。
小生も言葉や形は違えど、同じようなことで、その悲しみは受け入れれた。

『秘めたる悪魔と向き合う』
        kuuことGeorge
人の力を越えた何かによりて
陰鬱溢れる世界に誕生した時
私は崇高なものに拳をつきつけた
母は祝福の言葉と呪詛を
囁やいたと云う
何故 
私を産み育てたのだろうか?
何故
儚い蝉にでも産んでくれなかったのだろうか?
悲しむべきなのは
私が自ら贖罪を背負い
蝉の寿命の様に
儚い快楽に溺れた日々である
人々に嫌悪を抱かせた過ぐる日の私
このうちに秘めた悪魔を
残余の紙の様に
燃え盛る火の中へと投げ捨てることはできないのだから

扠、今作品の序盤の展開や、パターソンの地下にある本、
ヘンリー・デビッド・ソロー(アメリカ合衆国の作家・思想家・詩人・博物学者)の『ウォルデン森の生活』、
フランク・オハラ(早世した詩人)の『ランチ・ポエム』、
ウィリアム・カルロス・ウィリアムズ(20世紀アメリカを代表する詩人)の『パターソン』と収集された初期の詩』、
そして、アルベール・カミュの『転落-ザ・フォール』等々を見て、
この事からおそらくパターソンも、小生が敬愛してるA・カミュを愛読していると推測します。
カミュの随筆『シーシュポスの神話』を読んでいただろうとも(妄想しつつ)思います。
カミュの随筆の中で、
不条理の目覚めについて、
『ふと、舞台装置が崩壊することがある。起床、電車、会社や工場での四時間、食事、電車、4 時間の仕事、食事、睡眠、同じリズムで流れてゆく月火水木金土──こういう道を、たいていのときはすらすらと辿っている。
ところがある日、〈なぜ〉という問いが頭をもたげる。すると,驚きの色に染められたこの倦怠の中ですべてがはじまる』
と書いているが、カミュの小説『異邦人』の主人公ムルソーは何かを自らに問うこともなく、ただ同じリズムで日々を過ごしていくだけであるのに対して、今作品のパターソンは既にすべてが始まった、その先に自らを置いて同じ毎日の中、驚きの色をもちて生活しているように感じます。
『シーシュポスの神話』にある、もしぼくが樹々に囲まれた一本の樹であれば、動物たちに囲まれた一匹の猫であれば、その生は意義があるだろう、というかむしろ生に意義があるかどうかという問題そのものが存在しないだろう、その場合ぼくはこの世界の一部であるのだから。
って一節があるが、パターソンはまさに一本の樹か、一匹の猫のように生きているように思える。
彼と世界の間にはいかなる乖離も分裂もない。
彼は世界の一部として、世界が彼に提供するもの、太陽、海、花、女たち。。。
を享受しているだけなのであるかのよう。

さて、今作品の舞台はニュージャージー州パターソン。
主人公は同じくパターソンという名のバスの運転手と、
運転手(ドライバー)演じるのはドライバー洒落てんなぁ。
芸術的に創造的な彼の配偶者。
パターソンは
詩を描き、
詩を詠み、
行く先々で、
会う人ごとに詩と出会う。
そして、魅力的で、高揚感があり、面白く、洞察力に富んでいました。
今作品は、オマージュとして観ることもできるし、ニュージャージー州パターソンという特定の場所を繊細に描きながら、どんな場所であれ、その場所は常に、現在と過去が混ざり合い、人々がそこを歩き、記憶する方法の産物であることを思い起こさせてくれました。
しかし、今作品は場所へのオマージュであるばかりでなく、日常生活へのオマージュでもあるんちゃうかと思います。
今作品の顕著な特徴のひとつは、ここには悪人やビビらせるゴースト、そして、意地悪なキャラが登場しないこと。
実際、可愛すぎるワンちゃんマーヴィンが花添えてるが。
憎らしいのはこの登場人物?ワン物は主人公の犬だやけど、その犬でさえ、あること以外(これを許せるか否かは難しい、これもマーヴィンの嫉妬心からかもしれないが、動物には罪はない)、パートナーとのラブラブに水を差すくらい。
にもかかわらず、奇跡的に、この映画には素朴さがまったくない。
むしろ天才的な人類学者の手になるかのように、カメラは好奇心をもって彼らを追いかけ、見守り、映画は決して判断や見下しに似たものに陥ることはないから不思議な体験でした。
主人公の視点に引き込み、彼の気持ちや動きを受け入れ、共感し、小さな出会いの数々を愛でることができるのは、まさに天才的といえるんちゃうかな。
また、この映画のエエとこは、時代を超越した感覚と外観を備えていることです。
1950年代に撮られたかもしれないし、1970年代に撮られたかもしれないのに、つい最近撮られたという事実を隠そうともしていない。
因みに、パターソンは、携帯電話を持っていないことを強調してる。
それがこの映画とオマージュを捧げる能力に大きな影響を及ぼしてるんかな。本当に元気の出る映画です。

今作品が印象に残るか否かは、ほとんど問題じゃなく、この映画は、その厳かな散文、じっくりとした撮影、ゆったりとしたペースとか、ジム・ジャームッシュ監督の他の作品の特徴をすべて備えているんやと思います。
しかし、今作品は、それ自体に注目されないからこそ、注目されるのであるし、それ自体に注目しないが故に、それ自体に注目が集まる。
それは、まるで無地のレンガの塊のようで、その上に観てる者自身が感情や経験を描き出すのを待っている。
また、今作品はパターソンの穏やかな表情を、丁寧に構成された日常のフレームと重ね合わせながら捉えました。
また、視覚的に霊性やアニミズムを暗示し、観てる側にそのパスティーシュ(作風の模倣のこと)な禅の形式から深い意味を見出させようとしている。
映画ならともかく、日常生活におけるいいようのない知恵を評価するのは無理な注文なんかも知れへん。
ただ、今作品は部分的には成功しているが、パターソンとローラの間の重要なやりとりは、あまりにも多くのことを語らないままになっているのは残念かな。
この映画は、印象に残るかどうかにはあまりこだわっていないし、水のように、何も考えずに流されることもあれば、体の芯まで浸食されることもある。
今作品が好きかどうかは、映画よりも観てる側にかかっていると云っても過言じゃないかな。
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