ま2だ

ワンダー 君は太陽のま2だのレビュー・感想・評価

ワンダー 君は太陽(2017年製作の映画)
4.1
ワンダー、観賞。

生まれつき顔に残る障がいに負けず、健気に生きる男の子の物語、ではない。そこだけ取り出すと中庸な仕上がりだが、その扱い方と、彼と彼を取り巻く登場人物それぞれに対する映画時間の配分に、本作の今日的なバランス感覚をみる。

邦題は「ワンダー 君は太陽」。太陽の周りを回る惑星のように、障がいを持つ息子中心の生活を送る家族、という意味で「太陽」と「息子」、2つのサンを自嘲的に重ねてみせた劇中の姉の台詞からの引用かと思われるが、このミスリード的な邦題と内容の距離感、温度感の違いはそのまま、映画の観賞前と観賞後の印象の差分にもつながり、興味深い。

冒頭からの主人公オギーの章で彼を取り巻く状況を一通り描写した後、姉ヴィアの章、更に姉弟それぞれの友人の章が挿入されるタイミングで、本作は太陽ではなく、その周りを巡る惑星たちの物語なのだと思い至る。

そしてここにオギーの父と母の章がないこと、また描かれるエピソードのほぼ全てが、オギーの顔に障がいがあろうがなかろうが、思春期の少年少女がくぐり抜ける/たであろう、些細なすれ違いによる関係性の変化と強化の凡例であることを考えると、この作品が子どもたちをターゲットに真摯なメッセージを届けようとしていることがわかる。その意味ではいじめっ子の章がないことも、メッセージの一端だと捉えられる。

顔に残る障がいを除けばオギーは環境的にも才能的にも恵まれており、スポイルされることも肩に余計な力を入れることもなく、子供らしく屈託なく育っている。このパーソナリティの設定によって本作は、彼に劇画的な悲運を積み上げて乗り越えさせる感動ポルノ化を免れているといえるだろう。

ただそれゆえか、オギーパートの掘り下げは若干ステレオタイプで浅いものになっているが、惑星たちの物語を浮かび上がらせる触媒としてはなかなかいい塩梅なのかもしれない。

宇多田ヒカル「誰かの願いが叶う頃」で描かれる世界の成り立ちを、ひとりの少年を中心に表現してみせた作品だと思う。障がいを持つ者ではなく、その周囲の者の描写に共感させ、テーマを染み込ませていく構成が巧い。が、全編に敷かれたノーマライゼイションゆえか、観賞後に胸に残るテーマの薄まり方には若干困惑させられる。泣かせどころはたくさんあるのだけれど、宛先の違う手紙を受け取ってしまったような気分だ。

個人的にはコニーアイランドで孫娘と祖母が寄り添うシーンに涙。そしてエンドロールでナタリー・マーチャントのワンダーのイントロが流れた瞬間また涙。あれはズルいな。
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