きざにいちゃん

サウンド・オブ・メタル ~聞こえるということ~のきざにいちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

4.1

このレビューはネタバレを含みます

メタルロックのドラマーの突然の聴力喪失による失意と再生の苦悩を描く作品。
喪失と誕生は人生の縮図であり、人によって異なる様々なその過程こそが人間ドラマになる。それ故にそうして作られてきた映画や物語は星の数程あるが、聴力を失う恐怖、不幸を一人称で観客に擬似体験させるリアルな音響効果の斬新さがこの作品が出色である理由だろう。

本作を観て思い出したのが、さだまさし原作で映画化、ドラマ化された「解夏(げげ)」だ。ベーチェット病という難病により、徐々に視力が失われてゆく失意や恐怖と、失明を受け入れることの葛藤を描いた作品である。
解夏は視力、こちらは聴力だが、サドンデスの突然の喪失と、フェイドアウトで生殺しのように徐々に失われてゆく喪失とでは人が苦しむ辛さの質は違う。どちらがより辛いかという問題ではないが、おそらく、映画として描き易いのは後者の解夏スタイル。余命宣告された難病ものが多いのもその為だろう。

本作はあえて前者のアプローチを採った優れた作品だとは思うが、残念ながら必ずしも成功しているとは言い難い。耳が聞こえなくなったことに驚き、失意に暮れて事態を正視できなかったルーベンが、徐々に手話を身につけ聾を受け入れて順応してゆく。しかし、その過程の彼の心情変化がかなり端折って描かれているし、手術という選択肢をやはり捨てきれなかった彼の音楽への執着や手術を選んだ動機も、もうひとつ、どこか説得力に欠ける印象を持ったからだ。簡単に言えば、ルーベンとルーの、二人それぞれの葛藤の姿が省略され過ぎているように思うのである。ルーがルーベンのいない新たな生活を歩み始めたのは何故なのか、ルーベンが何かを悟ったようにルーとの別離を突然受け入れたのは何故なのか…
観客に委ねた余白が大きすぎて、やや作り手の独善的な自己満足を感じてしまうのである。丹念に描くべき葛藤が欠落してしまっているのではないだろうか。

ラストシーンのルーベンは、ジョーの語った静寂を想起させるが、僕はルーベンがゴールとしてその境地に辿り着いたとは思わない。ラストシーンの沈黙はルーベンの諦念であり虚無であるはずで、それゆえに、ラストシーンをもってして初めて彼はゴールでなく、スタートラインについたのだと思う。それ故の、オープニングとラストの音の対比。