ーcoyolyー

レザボア・ドッグスのーcoyolyーのレビュー・感想・評価

レザボア・ドッグス(1992年製作の映画)
3.8
ハーヴェイ・カイテルの横綱相撲。

私がハーヴェイ・カイテルを認識したのはこの直後の「ピアノレッスン」が初なので、ちょうど知った頃のハーヴェイ・カイテルにまた会えたの嬉しかった。

どことなく「インファナル・アフェア」を彷彿とさせるなあと思ってたら両方「友は風の彼方に」という香港ノワールが元ネタなんですね。「レザボア・ドッグス」は3分の2くらいの場所でネタバラシするのオシャレだなと思ったけど元ネタ自体がそうなのかな?調べたついでにこの「レザボア・ドッグス」というタイトル、ルイ・マルの「さよなら子供たち(Au revoir les enfants)」から来てる説見かけてちょっと高まった。タランティーノそこら辺も当然しっかり押さえてるんだな。好きな監督はルイ・マルです、と答える私の相手してくれるんじゃん。

かつて、大江健三郎の小説を読んで「これくらいなら俺でも書ける(私からの註ですが、まず書けません)」という勘違い文学青年が大量発生したらしいのですけど、タランティーノもこれなんだ、と気づきました。私、大学時代にこういうノリのこれよりずっと完成度の低い学生映画よく観せられた気がして、ああ、あの人らはこれをやりたかったのか、と今やっとわかった。映画青年の琴線に触れる何かがあるんでしょうね。密室劇で確かに低予算学生映画にもってこいのシチュエーションではあるんだけど、細かいところの匙加減少しでも間違うと大惨事になるやつだよこれ…「俺たちに明日はない」のラストを警官でやるとか、ちょっとしたブルースブラザース風のことやるとか、すっごくサラッと取り入れるから「俺映画知ってんだよ」ってドヤるタイプの人間が取り入れちゃうと途端にダサくて見れたもんじゃないものになるんだよ、元ネタわかってご満悦になってないで元ネタをどう取り入れるかのセンスの方がよっぽど大事だからね。

タランティーノがタランティーノであるのはあれだけ非モテ陰キャ全開な割に何故かセンスがクールなところなんだよ。あんなにキョロ充陰キャっぷり晒してるのに、何故か作品にあんまりそれが滲み出ないでクールでモテそうな感じに仕上がってるの謎。作品はオシャレなのに本人は全くそんなクールな部分出てこないヲタ丸出しなの謎。まあオシャレつっても冒頭で童貞臭いマドンナ話してて、実際にマドンナのパートナーだったガイ・リッチーの明らかにモテそうなオシャレさとはやっぱり少し違うんですけど。多分そのガイ・リッチーじゃないところが大江健三郎が決して伊丹十三じゃないように、全世界の映画青年にモテたんだと思う。ガイ・リッチーや伊丹十三は真似できないけど大江健三郎やクエンティン・タランティーノは手の届く人間だと錯覚しやすかったんだと思う。でもほんっとにこういう人にはなれないよ。なんなら伊丹十三やガイ・リッチー目指した方がまだ簡単。
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