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君の膵臓をたべたいのkuuのレビュー・感想・評価

君の膵臓をたべたい(2017年製作の映画)
3.8
『君の膵臓をたべたい』
映倫区分 G.
製作年 2017年。上映時間 115分。
タイトルとストーリーのギャップで話題を集めた住野よるの同名ベストセラー小説を実写映画化した青春ドラマ。
余談ながら住野よるを知ったころは女史やと思てたが、以前、住野よるのツイッターに
『また女性だと思ってたと言われたので明言しておきます、見た目おっさんの26歳です。』とありビックリした。
“僕”を北村匠海、桜良役を浜辺美波が演じ、大人になった“僕”役を小栗旬、◯◯役を北川景子がそれぞれ演じる。
新鋭・月川翔監督がメガホンをとり、青春映画に定評のある吉田智子が脚本を担当。

高校時代のクラスメイト・山内桜良の言葉をきっかけに教師となった“僕”は、教え子の栗山と話すうちに、桜良と過ごした数カ月間の思い出をよみがえらせていく。
高校時代の“僕”は、膵臓の病を抱える桜良の秘密の闘病日記を見つけたことをきっかけに、桜良と一緒に過ごすようになる。
そして桜良の死から12年後、彼女の親友だった恭子もまた、結婚を目前に控え、桜良と過ごした日々を思い出していた。

かっこいいタイトルに誘われても見る縁がなかった今作品。
多分、本屋で小説のタイトルを見たとき、こ、これは❗❗ゾンビフリーク心の芯が疼かせゴアフェスに華開く物語かと思い、読んだら。。。違ってたから実写化は見送ってたのかも。
しかし、原作でも昔ながらの泪を誘う手法にマンマとハマり泣かされ、今作品、実写化でもストーリーを知ってても、また手法に嵌まるまいとしたのに哭かされた。
幼稚園児なら拗ねてた🥺
『お母さんもう泣いてもいいですか』。。。
作中で、このイカれた(良い意味で)なタイトルが意味を持ち、強烈なインパクトを与えた。
12年後、"僕"が小栗旬に❗❗有りえんがな。
しかも◯◯役が北川景子って、
おばたのお兄さん演じる小栗旬が演じる"僕"ならわかる。
ざわちんが100円ショップフルコスメで演じる北川景子演じる◯◯ならわかる。
しかも❗❗高校生の僕が北村匠海ときたもんだ。
唄ってくれワンテイクで浅野内匠頭じゃない、北村匠海WithDISH//ミスチルも悪くはないが。
世の中に、若かりし日に整った顔でも、12年もたてば器量が悪なるやつは多いのに100%器量良しでいっとるやん。。。
美男のまんまなんて有り得んやろと思いつつも、いつしかあり得るような感じがして、映画ってホンマ不思議。
不思議なのはも一つ、主人公の名前は終始出てこない。
住野よるは、やり"よる"秘密主義者よる。
今作品は、人気の両極にある高校の同級生2人の間に芽生えた10代の恋愛を描いた物語。
社交的でない少年は図書委員で、失くした本を悲しい本と見るが、桜良は発見者の失われた宝物と見る。
"僕"は誰とも目を合わせることができず、周りの空間を一生懸命に守っている。
一方、桜良は明るく楽観的な性格の女子で、たまたま末期症状を患っている。
桜良はあることが迫っているが(伏せる必要はないかも知れないが)、まだ諦めることなく、多くの高みを目指そうとしている。
二人の友情もまたありそうでなかった。
しかし、二人の好感度と時間が短いため、二人の恋の芽生えを簡単に信じることができる不思議さ。
北村匠海は控えめな演技で、富田望生(失礼)じゃなく、浜辺美波は対照的な輝きを放つ。
浜辺が演じる桜良は、希望の光であり、前向きな姿勢で、知恵の出し手でもある。
次のターンで何が起こるかわかっているので、胸が張り裂けそうになるほど、彼女に恋するのはたやすい。
彼女は賢くも聖人にはならず、エロスに興味を持ち惑わす。
月川翔監督は、涙を誘う作品を慣れているようで、感情的なシーンを巧みに操っている。
感情的なシーンは、操作的で気取った感じがしいひんかったし、主人公を通して人生の知恵のようなモンをたくさん運んでくれてます。
ただ、浜辺美波の演技はdocomoのCMのリズム音痴と同じように可愛いと見るか否かは二分されそう。
監督は観るものが持つ、
草冠に心3つと書いて、蕊(しべ)をゆらし、心を美しさで満たし、徐々に膨らませて、桜の花びらの雪崩で爆発させる方法を知ってるよう。
今作品は、結構好んで読んでます作家住野よる、別名夜野 やすみの2015年のベストセラーから興味深い回り道をし、12年前にジャンプして桜良が他人に与える影響を描いている。
そのため、基本的にストーリーはフラッシュバックで語られてました。
ありがたいことに、それらはうまく処理されており、使い古された物語装置となることはなかった。
一方の時間軸にいると、もう一方の時間軸の登場人物が気になって仕方がない。
物語は最後に崇高なひねりを加え、その名を冠し、桜良が誰の人生においても最も重要なこと、つまり彼女の周りの世界を変えることを達成したことを証明するのである。彼女の記憶は、他の人の中に生き続けている。
面白い作品でした。

『死』について取り留めない噺をヲチなく徒然に。

いったい『死』てのは何やろか。
わかってるよで、わからへん『死』。
昔のギリシアのエピなんちゃらって哲学者のオッサンは、
『死てのは、諸々の悪うちで最も恐ろしいものとされとるけど、実のところ我々にとっちゃ何ものでもないんや。
何故なら、我々が存在する限り、死は現に存在せず、死が現に存在するときにゃ、もはや、我々は生きちゃいないからや。 
ほんで、死てのは、生きとるモンにも、すでに死んだモンにも、かかわりがあらへん。
これまた、何故なら、生きとるモンのとこにゃ、死は現に存在存しいひんので、他方、死んだモンはもはや存在しないからや。』
とひねりコネくり回しとる。
要約すっと、死ぬ前には死んでいないし、死んでしまえば生者は存在しない。
だから、死なんてモンはないと云ってる。
形式論理的には確かにその通りやけど、そないやって云われても合点がいかんし、気が楽にはならへん。
死に対する不安てのはちっとも軽くならへん。
それが哲学的な考えの限界ちゅうとこかな。
死に対する不安を軽減させんのが、宗教の役割の一つなんかと思う。
たしかに、エピなんちゃらの哲学で安心できる人が居るかもしれへんが、そないな人には宗教はイランのかも。
小生も未だに半信半疑ながら、どないな宗教や人、またはモノに無心で信じる人は、そうでない人(小生も含め)よりは不条理に対してストレスはある程度回避してるように見受けられる。
また、死ぬまでは死にやせんのしなぁ、とか、死ぬことなんか忘れて生きてれる。
そうできる人は幸福なんかもしれへん。
もっとも、幸福な時間は、一般的に人てのは死を忘れていれるとも云える。
幸福な時間てのは、人は死ぬまでは死にやしないと哲学的諦観でもって高を括って生きてゆける。
せや、一度、人は不幸な状態になると、そないな哲学的諦観ではやっていけんようになる。
余裕ある高僧が死ぬ前に『死にとうない、死にとうない』と連呼して示寂した例は枚挙に暇がないほどある。
不幸な状態でも、ならへん人もたまにはいるけど。
そのとき哲学頼りやと困る。
宗教を持っていない人間の悲劇がそこにあるんかもしれへんが、死ぬまでの暫しの間苦しむ。
ニヒリズムのニーチェでさえ、死の間際で人智を超えた存在を完全否定しなかった。
ニーチェは死の間際『神は死んだ』と云った。
まぁキリスト教での絶対的な視点は存在しないって意味で解釈されてるけど、超越した存在の否定はしてない。
エピなんちゃらのような哲学的諦観としての死てのは、死を点として捉えてるのかもしれへん。
死ぬまでは死なへん、みたいな哲学的諦観やから、ここでは死は生の終わりの点になってる。
そないに見ると、死ちゅう実体はなくなる。
それで死を忘れることができる。
実体がないから怖れるモノがないし不安でしかない。
そうすると、ヒーローのようなことも云える。
シェークスピアの『ジユリアス・シーザー』に出てくる言葉に、
『臆病者は、本当に死ぬまでに幾度も死ぬが、勇者は一度しか死を経験しない』
せや、これは形式論理でしかないんやろなと思う。
そう云うひとに限って
『死にとうない、死にとうない』と往生際がわるくなる。
宗教てのは死をどないなふうに考えてるかるか。
それぞれの宗教で考え方が違う。
例えば仏教てのは死を線として捉えてる。
多くの哲学的には死は点やけど、仏教的やと死は線と云える。
生・老・病・死の四苦って一連の流れ(線)は、点によつて分断される。
連続した線があって、その中央に一つの点がある。
この点が死で、その右側が生、左側に死後がある。
つまり、生きている(生)状態が突然、死によって終わり、そのあとは死後になるのですこれが、エピオッサンのような哲学者の考える死。
ユークリッド幾何学においては、点には位置だけがあつて大きさはないとされてるから、その意味では死はないと云える。
そして、同時に、人間存在は死という点で終了するから、それ以後は人間でなくなる。
人間でなくなったものは物体やし、これを煮て食おうが焼いて食おうが構いはしない。
なんて物騒な考えになる。
脳死や臓器移植の問題の背後には、そういった哲学がちらついてんのかな。
医療と哲学は切っても切れない。
『死』を恐れるのは終わっちまう、『死』の後が全くもってわからんから不安になる。
不安から、諸々の実際の問題が見え始め恐怖と変わる。
しかし、小生を含め多くの人は眠ることを躊躇なく、いやむしろ快眠なら望んでする。
眠った後に目覚めなかったらって思わないのは不思議だし、考えたら眠るのが怖なる。
どうせあんまり眠ることが出来ないけど。。。
まぁ今作品は取り留めない空想が連想してしまうほど良い作品でした。

昔の人はどこか悪いところがあると、他の人のその部分を食べたという云い伝えがある。
肝臓が悪ければ肝臓を、胃が悪ければ胃を、と云った感じで他者の部分を食べたそう。
そうしたら病気が治ると信じた先人の話を、病気に侵された主人公は戯けて話す。。。
美しい絵画を観ると小生は壊したくなる。
それは、もしかしたら『美』と云う『真理』をモノにしたいのかもなぁ。。。
kuu

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