あなぐらむ

人生フルーツのあなぐらむのレビュー・感想・評価

人生フルーツ(2016年製作の映画)
1.0
前も書いたがドキュメンタリーが嫌いである。特に日本のドキュメンタリーが嫌いだ。
ドキュメントはファクトではない。「リアル」でもない。「編集」が存在する限り、いやずっと回しっぱなしであろうとも、そこに意図的なアングルやカット(切り方、配置など)がある限り、それは「ある思想を持って再構築された現実」でしかなく、すなわちそれは撮り手である「ドキュメンタリスト」の思想なり主張なりを語るツールでしかない。
この辺りは、端から嘘でござい、と作り出される「物語映画(フィクション)」の方がいっそ潔い。
これは戦争という、今現在我々が感じやすい部分でもっとも顕著である。御存知の「プロパガンダ」の手段として大変有効であるのが知られている。映画というのは、そういうあやうい事のすぐそばにあるのだ。

さてこの「人生フルーツ」は今もあちこちでリバイバル上映されている傑作ドキュメンタリーという事で、お馴染み横浜の象の鼻テラスでコロナ禍に入ったすぐの頃に上映会を行った。そんな中でも沢山の方がおいでくださった。感謝である。
なのだが、まぁ自分の企画ではなかったからというのもあるんだが、ブレーンの方と見ていて、一般的にみなが賞賛するような作品には思えなかったのが本音だ。なぜか。
先に書いた通りに非常にテクニカルに、撮り手の思うようにこの老夫婦が描かれてしまっているからだ。
だが、俺には偏屈な爺さんと婆さんにしか見えなかった。年金生活なのに悠悠自適の、スーパーで山ほど良い食材を現ナマで買って送らせる、そもそも人が入ってくるのを拒絶しているような作りの家を、自分がデザインした団地に住める権利をわざわざ断って建てた家に住んでいるような夫婦である。
俺とブレーンの人の共通認識として「こんな風な老後は恵まれた人しか送れない」というものだった。「こつこつ」してないじゃん。散財してますやん。

ミニマムに暮らしているようで、実はこんな風な老後を過ごせるのはご主人が超エリート、東大のボート部にいたような技術者であり、奥様も立派な旧家のお嬢様だからなのである。これは一般化できない格差だ。富裕層である。
それをこの作品は、樹木樹林のあの声のナレーションでえぐ味を取り去り、なんというか、出自を隠したままの鶏貴族のから揚げのような、そういう「美味しそう」な部分だけを見せてくる。

実際のご主人は、才能こそあれ社会に適合できずに公団を去り、引きこもった大人になれなかった爺さんである。
かつての公団の友人の方が指摘される通り、彼は引きこもっているのだ。
彼が奥様に書くイラストが極端に昭和レトロ漫画ちっくであるのは注目すべきである。彼は大人の精神性を持っていない。

作品は後半転調を始め、夫妻の台湾行きを描く。彼らの評判が海外でも高い事を示す傍ら、ご主人の軍需工場時代の友人への墓参が描かれる。日本がかつて台湾を併合していた事に対して暗に否を提示し、同時にご主人を放免する。そのロジックが気持ち悪いのである。作り手の非常に巧妙な、観客の感情への操作が見て取れる。
そうしてから、彼の死を映し出す。物語以外であれだけ鮮烈に、というかそのままの屍体が映像として見せられる事というのはそうは無いのではないか。彼は大人になれないまま、通過儀礼を終えないまま、死んでいく。
戦争と戦後経済成長を経たスローライフな老後のモデルケースとして、もっと下層で蠢いて呻きながら死んでいった人々の事はあっさりここでは素通りされる。

このご夫婦が悪いと言っているのではない。
こういう恣意的な視点でもって、「いい話でしょ」と提示してくる作り手が嫌なのだ。人生の果実は恵まれた者には授けられるだろうが、それはひと握りだ。今、病理や遠くの戦争で我々の生活は徐々に厳しくなっているのが実感される中で、こういう「絵空事」を、ドキュメンタリーだというエクスキューズでもって人々が観る事にはどうなのよ、と思う。
ドキュメンタリストがある思想を人に提示する仕事だとすれば、それはアジテーターや皆さんが嫌う政治家と大して違わない存在なのだ。