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ロニートとエスティ 彼女たちの選択のotomisanのレビュー・感想・評価

4.2
 意外にも超正統派礼拝所に属するユダヤ教徒の数がこの映画の頃、ロンドンで増えていたと聞く。ユダヤ教信徒の家庭で生まれ育ってこの方、疑いもなくそれを信奉して来たからといってLGBTQに無縁でいられるわけでないのは、生き物の発生の自然な仕組みが絡む以上しかたないが、そんな事が知れたのも最近の事。対するユダヤ教は統制的な家族のもとで何千年受け継がれてるやら。科学的だろうともLGBTQへの理解も容認も、同性愛恐怖の払拭も神の膝下にあっては容易ではないのだろう。
 ならば、LGBTQのユダヤ人はどうすればいい。ここで取り上げられたロニートとエスティは結局、信じた通りに生きる事にするようだ。
 発端はロニートのNY出奔の切っ掛けとなった十何年前のエスティとの関係を超正統派ラビである父への告白で否認された事にある。土地をおん出る器量があればNYでもどこでも行くだろうが、気の迷いがあればわだかまりを抱えて口を噤むしかない。そんな口を噤んだエスティが結婚したドヴィッドに後継ラビ就任が迫り、忘れたことの無いロニートへの態度を明らかにせざるを得ない窮地に立つ。
 よくよく考えれば、Lの女二人に現実的選択肢があるわけではない。ドヴィッドの子を身籠ったエスティは二人の関係を知らぬ者がない中、これまでの暮らしを続けるしかない。むしろ、状況を打開するのなら先代ラビの亡くなった折を捉えて、後継を嘱望される夫ドヴィッドが問題提起するしかないのだ。もちろん妻エスティがロニートを同性として愛す事を受け容れての上での事だ。
 ドヴィッドのそれが妻への愛によって叶う事なら、その他多くのユダヤは何の所以でなら許容できるだろうか、これから何世代もかけておおっぴらに決着に向かわせる、ほんとにそんな展開がありうるのか分らんが、崖っぷちに立ってのこれが第一歩なのだ。
 現実には原理主義者のテロ事件も聞かれる今、ラビ就任を返上したドヴィッドも身二つな妻エスティも、その相方ロニートもつま弾きで生きるのか、新しいユダヤ教でも目指すのか、創造物の中で人間だけが選択の余地を与えられ、そこに自由があることの意味を噛み締めなければなるまい。なぜなら、ここでは自然に生じた性的違和の解決に当事者の自由な判断が望まれながら教義上選択の余地が無いとされる事への再考が議題に上っているからだ。自由な判断の余地があるなら、選択して決着を付ける自由もあるだろう。神がその選択を許すかどうかは終末の時に分る。神が決着をその時でよしとして与えた自由の行使を信徒団体が独自の解釈で予防的に禁止する事が正しいのかが問われる格好にも見える。
 いないものと思い定めた娘とその相方とが突き付ける存在証明の義をラビは死の間際、予想しなかったろう。遺贈の品は何もなくとも、存在自体に目を背けても無くなるわけでないのは承知のはずなのに。異端な存在も悪魔よ邪教よでは済まされぬ、狭いながらも科学の観点から許容される時代、対立だけで切り捨てて我ら関せずで過ごせるとも、不寛容で結束して結果、孤立の憂き目にあわないとも限らない時代に臨む次世代のために、寛容である心の芽生えさえもなかっただろうか?いつか終末の時に神からそれらの答えを受け取るだろう。
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